ヌプンケシ46号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.46
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平成15年4月15日発行

46-noto◎秩父事件と井上伝蔵(1)
 新聞報道にありましたが、秩父事件百二十周年記念映画埼玉製作委員会が、平成16年公開予定で井上伝蔵を主役(緒形直人)にした映画『草の乱』を総製作費四億五千万円で撮ることになり、この9日から11日まで神山征二郎監督がロケ地選定に来北されました。シナリオ第1稿では映画のファストシーンとラストシーンで野付牛が舞台になるのですが、北見市民は思いのほか井上伝蔵について知りません。そこで今回は井上伝蔵についてリポートして見ましょう。
◇自由民権運動と大日本帝国憲法
 その前に、背景となった自由民権運動について勉強しておきましょう。自由民権運動は明治7年(1874)、板垣退助らが立法諮問機関に提出した民撰議院設立建白書を口火に、民衆が近代的国民国家の構築を目指して進められた政治運動で、憲法制定、国会開設、地方自治の確立、地租軽減、条約改正などを明治政府に要求しました。明治13年(1880)3月には国会期成同盟が結成され、目標の重点を国会開設において全国的な運動を進めることとなり、同年11月の第2回大会では各地で憲法草案を起草することを決め、運動で「不時の変故」にあった場合の本人と家族を扶助する遭変扶助法を定めています。こうした民権派の動きに対して明治8年(1975)の
46-jinbutu「立憲政体樹立の詔」、明治12年(1879)の府県会開設などで民権派の意見を取り込むように見せると同時に、集会を制限した集会条例を明治13年(1880)4月制定、運動を弾圧しました。同年7月、官有財産を格安に政商五代友厚らに払い下げようとした北海道官有物払い下げ事件が起き、運動に火をつけました。これに対して、明治政府は払い下げを中止し、明治14年10月、伊藤博文ら薩長閥が政府内部の反対者と目された大隈重信を罷免すると共に、明治23年に国会開設を約束する勅諭をだして、一種のクーデタである「明治14年の政変」を起こし、政府の実権を握ることとなりました。この間、国会期成同盟に結集した土佐派を中心に日本最初の全国政党である自由党を、都市知識人層は翌年大隈を総理に立憲改進党を結成しました。その後の弾圧、懐柔策、デフレなど経済状況の悪化で運動支持層の窮乏化、階層分化により民権派内部が分裂・抗争し、さらに福島事件、群馬事件、加波山事件、秩父事件など激化事件が続発し、明治17年(1884)10月自由党は解党し、改進党も同年12月に大隈ら幹部が脱党して事実上解体しました。その後、条約改正に絡んで明治20年(1887)に、言論の自由・地租軽減・外交の回復を内容とする三大建白運動が起きますが、保安条例による弾圧によって自由民権運動は終焉しました。
 明治政府は明治11年に起きた近衛兵の反乱「竹橋騒動」を重大視し、軍隊が自由民権運動と結びつくことを恐れ、天皇への絶対服従を旨とする軍人勅諭を明治15年にだしました。伊藤博文は渡欧して、プロシアやオーストリアの憲法学者から「最新情報」を聞いています。つまり、これからは資本家と労働者との階級闘争が中心になること、従って権利や人権を認めない欽定憲法の方が民衆を支配するには有利なことを学びました。こうして明治22年(1889)に、教育・徴兵・納税を臣民の三大義務とする大日本帝国憲法が発布され、翌年にはこれを支えるイデオ46-sakuraロギーとして教育勅語が下され、大日本帝国敗戦まで機能し続けました。
◇秩父事件について
 前項で激化事件の一つとして取り上げられた秩父事件は、明治17年(1884)10月31日、埼玉県秩父地方でおきた中農自由党員、貧窮農民による武装蜂起事件で、昭和55年度NHK大河ドラマ『獅子の時代』で取り上げられましたので、ご記憶の方もいるでしょう。
 秩父地方は山村で養蚕・生糸生産を主産業として、幕末から明治の初期まで外国貿易による好景気に沸き、文化的な活動も盛んでした。ところが明治14年から実施された松方デフレ政策の影響と、生糸価格の暴落で、秩父地方の農民は大打撃を受けました。その結果、納税や営農のために「高利貸し」から借金をする破目になり、土地・財産を没収され、離村や小作へ転落するケースが増えました。法外な利息を取る「高利貸し」に対して、借金農民は自由党に入党して、これに対処しようとし、最終的には困民党を組織しました。

 明治16年12月、高岸善吉、落合寅市、坂本宗作の3名は、郡役所に最初の高利貸説諭請願を提出しましたが、ただちに却下されました。この負債返済方法の緩和運動は明治17年に入ると質的にも量的にも拡大し、田代栄助を頭領として「借金十年据置40年賦に延期を請う・学校三ヶ年休校を県庁に請う・雑収税の減少を内務省へ請う・村費の減免を村吏に迫る」こととし、債権者や郡役所への請願という合法的な運動が続けられましたが、ことごとく拒否され、10月になると蜂起への準備が進められました。そこで困民軍は役割を分担し、総理・田代栄助、副総理・加藤織平、会計長・井上伝蔵、参謀長・菊池貫平などとし、「私ニ金円ヲ掠奪スル者ハ斬・女色ヲ犯ス者ハ斬・酒宴ヲ為シタル者ハ斬・私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬・指揮官ノ命令ニ違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬」という、厳しい軍律五ヶ条も掲げられました。
 決行予定日は11月1日でしたが、10月31日一部農民が決起、警官隊と衝突し、事実上戦闘が開始され、2日には大宮郷の郡役所を占拠、困民軍は一時1万人を動員、全秩父を支配下に置くほどの勢いを示しましたが、憲兵・軍隊との交戦で、困民軍指導部は動揺して4日には解体、伝蔵ら幹部は武甲山に潜行しました。菊池貫平らが率いる一隊は長野県に転戦しましたが、9日野辺山で政府軍の攻撃を受けて敗走、秩父事件は終息しました。
 困民軍制圧に重要な働きをしたのが電信でした。明治6年には長崎—東京間が開通し、明治8年(1875)には札幌までつながりました。明治10年、西南の役でその軍事的役割が十分認識され、自由民権運動弾圧にも有効利用され、秩父事件の起きた明治17年11月の電報量は前年同月より7千通以上多く記録されています。この電報によって、憲兵隊、東京鎮台兵、高崎鎮台兵が緊急動員され、効果的な部隊配置、攻撃がなされました。しかも、困民軍の武装が旧式な火縄銃なのに対して、政府軍は軍事訓練をし、当時としては最新式の村田銃で武装していましたから、軍事的な勝敗は最初から明らかだったのです。
 事件後、「暴徒糾問所」が11月6日、大宮・小鹿野・熊谷・八幡山の4ヵ所に設置され、埼玉県下では逮捕380人、自首3,238人、計3,618人が脅迫と拷問で「自白」を強制されました。結果、重罪296人、軽罪448人、罰金科料2,642人となり、田代栄助、加藤織平、新井周三郎、高岸善吉、坂本宗作の5名は死刑となり、井上伝蔵、菊池貫平は欠席裁判で死刑の判決をうけました。さて井上伝蔵はどこに潜伏したのでしょうか。続きは次号で。

 《中庭だより》 
☆マスコミ報道のおかげで、戦前、戦中の新聞が当事務室に寄せられました。一つは端野町の町民の匿名希望の方から、もう一つは美芳町にお住いの菊池富治様からでした。端野町の方はもう少しで捨てるところだったそうで、美芳町の菊池様は1・2年前に大量に新聞を廃棄したとのことで大変残念でした。貴重な資料が知られずに失われている実例です。どんなに古い資料でも捨てずに、お寄せ願いたいと思います。
☆神山監督のロケハンに当事務室もお手伝いをし、筆者も久しぶりに秩父事件を再学習して勉強になりました。その内容は次号で報告したいと思います。お楽しみに。
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