ヌプンケシ49号

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市史編さんニュース NO.49
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平成15年6月1日発行

◎ 秩父事件と井上伝蔵(4)49-ie
 今回は明治45年(1912)5月、野付牛にやってきた伊藤房次郎(井上伝蔵)一家の住所について、推定してみましょう。
◇島田さんとは?
 最初、伝蔵一家が野付牛に頼ってきた「島田」という人物について調べてみました。
 伝蔵の三女、せつさんが、市場の「鉤とり」から「その後、島田さんは車屋になりました。」と言っているのをヒントに、大正12年発行『野付牛総覧』で人力車屋を調べてみましたら、「人力、自働車(ママ)」の項に一人だけ「一条通西二丁目 島田幸蔵」とありました。多分、この人物に違いはないと目星をつけましたが、ご子孫が今も北見にいるかどうかは不明でした。
 そこで手元にある名士録を片っ端から調査していたら、伊藤調査員が『奉祝北見』(昭和35年発行)の中に、島田良平氏という名前を見つけだしました。住所は山下町で、生年月日が明治42年6月1日、出生地は札幌、「父 幸造の長男」とあり、「昭和二六年十月現在のところに木炭商開業」とあります。「幸蔵」と「幸造」では字が違いますが、昔の資料ではよくある間違いです。伝蔵は札幌で出入りの業者から「島田」という名前を聞かされたのですから、「出生地が札幌」というのは決め手になりました。
 山下町の島田薪炭店であれば、小学校の同級生がおり、私が遊びに行ったこともあるお家でした。お兄さんの島田良幸氏が現在4条東6丁目で司法書士事務所をされていたのを思い出し、電話をしたところ、「幸造は私の祖父です。」と確認してくれました。「父、良平が二歳の頃に、札幌からは網走に上陸して野付牛にやってきたと聞いています。大正3年(1914)の大火の後、1条西2丁目の(近年まで甲賀瀬戸物屋があった)角地で、人力車17台と車夫25人ほど使って駅前の人力車屋として繁盛し、<野付牛三大遊び人>の一人に上げられるほど羽振りが良かったらしいが、修理する手立てもないまま外国から見世物兼用の乗合自動車を輸入して事業に失敗したらしい。」とのことでした。なかなか義侠心に富んだ人柄であ
幸造氏写真ったようです。なお、大火の前から1条西2丁目に人力車屋があったかは不明とのことでした。
 後日、幸造氏の写真と除籍を見せて頂きました。左がその写真のコピーですが、しっかりした人格が見て取れます。除籍によると、幸造氏は亀田郡亀田村大字石川村字一本柳5番地(現函館市石川町)の高崎三之亟の四男として明治13年(1880)1月2日に生まれ、明治42年2月18日島田家に婿養子として入籍。野付牛町266番地が最初の本籍で、大正7年12月20日に北1条東1丁目5番地に転籍、昭和12年6月7日には山下通1丁目5番地に転籍、昭和18年(1943)9月28日に同所でお亡くなりになりました。
◇266番地はどこ?
 住所と本籍が一致していれば、野付牛町266番地が伝蔵一家が野付牛に来て、最初に身を寄せた場所となるわけですが、しかしこの「266番地」も謎なのです。
 地番に詳しい市村正元氏のご協力を得て「野付牛266番地」を調査しましたら、現在の中ノ島小町公園あたりになることがわかりました。開拓に来たのであれば中ノ島でもおかしくはないのですが、島田幸造氏は市場の関係の仕事をしていて、人を泊めるだけの広さをもった家にいたわけですから、住所としてはちょっと違う気がします。
 道立図書館所蔵の発行年不明の、拓銀鑑定部が不動産取引の資料として戦前使用していたらしい「野付牛町市街図」のコピーが市史編さん事務室にあり、その中で「266」は北1条東3丁目、現在の齋藤商店さん横の月極駐車場あたりになっています。この場所だと仮定すれば、駅からも近く、札幌からきた伝蔵一家もすぐ見つけることができたでしょう。
 ただし、これもよく調べると「820ノ266」と、「820」の子番であることがわかりました。戸籍を作成するときに「820」を書き落としたのでしょうか、真相はわかりません。
◇二軒長屋はどこ?
  さて、次に一家が住んだ二軒長屋はどこにあったのでしょうか。私はそれが前号で取り上げた「1条西3丁目の三福付近」だと思っています。高浜ミキ(伝蔵の妻)の妹イトの娘であった米田コトさんは、親の都合で4,5歳から11歳まで伝蔵一家に世話になっていました。『文芸北見』創刊号の「井上伝蔵の足跡を追って」にコトさんの手記が載っています。
 「今の一条西三丁目で、『古物商』をしているときは、親子七人と私を入れて八人家族でした。そのくらしぶりは、お話になりませんでした。お米は一升、二升と買うのでした。いつも私が買いにいきました。/長男の洋と長女のフミは、たしかつとめていました。叔母さんは、農家の仕事など、やったこともない人でしたのに、なれない手で、出面取りにいったのです。でも賃金は、人の半分しかもらえなかったという話でした。」
 藤井今五郎翁の聞書きでは伊藤房次郎(伝蔵)が商売をしていたとは書かれていませんし、幼少の記憶ですから「古物商」をしていたというは前後の混乱があると思いますが、1条西3丁目に住んでいたことは確実です。昔の童謡に「ことし六十のおじいさん」と歌われていたとおり、当時の寿命から言えば高齢の伝蔵は働くことができず、一家の暮らし向きが大変で
50-hitoあったことは、この手記からうかがえますし、洋が藤井商店に手伝いにいったのもこの頃でしょう。大正3年の大火まで、ここで暮らしていたと推定されます。
◇大火後の住所は?
 洋が鉄道に勤務するようになって、やっと生活が安定したことは、前号の佐藤せつさんの話からわかります。大火にあって焼け出されてからは、民間の家を借り、鉄道が家賃を支払ってくれる生活になったそうですが、残念ながら住所は書いてありません。
 大正3年4月には末っ子の郁雄が西小に入学しています。「井上伝蔵の足跡を追って」によれば、彼の学籍簿の住所は「4条通西5丁目」とあるそうで、現在は労金のある近辺です。学籍簿作成が年度末とすれば、ここが焼け出された後に転居した先と考えられます。
 また、前記した米田コトさんの手記の続きでは、1条西3丁目から「梅原旅館の裏に、移ってきてから、まるいさんと黒部旅館の、フトンの仕立てをさせてもらうようになってから、暮らしは少しよくなったと思います。/それから間もなく、叔父さんの具合がわるくなりました。十才のころと思います」となっています。
 梅原旅館は停車場通りに面した2条西1丁目にありましたから、その裏となれば3条西1丁目ということになり、コトさんが十才であれば大正6年ごろと考えられます。
 同じ「井上伝蔵の足跡を追って」で郁雄と同級生であった生月喬氏が「5年生まで、一しょでした。高浜から井上姓に変わったのを不思議に思いました。当時、彼は三条西三丁目の、山際病院の前にいました。私の家も近くだったのでおぼえている。」と述べています。つまり、伝蔵が死んだ大正7年には3条西3丁目に一家は住んでいたことになります。
 以上のことから少なくとも分かるのは、大正3年から大正7年にかけて、「4条西5丁目」、確実ではありませんが「3条西1丁目」か、「3条西3丁目」にと何度か引越しをしているということです。(何しろ判断するにも手がかりになる資料・情報がないので、困っています。)

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