ヌプンケシ42号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.42
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平成15年2月15日発行

42-neko
◎北見の芝居ことはじめ(5)
◇劇団河童の結成
 同人誌から劇団に様変わりしたのは、やはり富山時代に職場演劇を経験していた島田久氏の影響が大きかったと思われます。菅原隆治先生も「それまで、芝居を本気にやってきたのは、島田君だけで、その他は、せいぜい中学校か高校の演劇部の活動ぐらいでなかったかと想像される。島田君は組織的に仕事を進めて倦むところを知らない熱心さであった。」と『劇団河童二十年のあゆみ』(以下、『二十年誌』)に記されています。
 『二十年誌』の年表によれば、劇団河童の結成は昭和31年(1956)6月20日で、その実質メンバーは「菅原隆治を中心とする河童文学のグループ米田早苗、山崎祐春、島田久等が中心となって発起し、NHK放送劇団の扇谷治男、土田寿美子、山田瑛子、井利のぶ子等」であったと島田氏が書いています。
 NHK放送劇団員であった安念瑛子(旧姓山田)さんは、当時のことを同誌で次のように回想されています。「高校演劇以来久しく舞台から遠ざかっていた私は、放送劇にひたすら若い意欲を燃やしておりました。そこへ、演劇サークルを作るのでどうか?という誘いに私達NHK放送劇団員全員が舞台をやれるぞという魅力に、二つ返事で入団致しました。/集まった仲間も気持ちは同じこと、演劇が好きで好きでたまらないがその発散のチャンスが何もなく、ようやくここに与えられたものですから、その意気込は恐ろしい程でした。」
◇旗揚げ公演はアラルコン原作・木下順二脚色『三角帽子』

42-kouen 第一回の旗揚げ公演は、同年11月3日、旧柏陽高校体育館(現藤高校の場所)、作品はスペインの作家アラルコン原作・木下順二脚色の『三角帽子』でした。ファリャ作曲のバレエ組曲にも同じ題名作品がありますが、醜男な農夫と反対に美人で利発な妻とが権力を笠に横恋慕する市知事をやり込める大らかな民衆喜劇です。
(この舞台を日本に移して翻案したのが『赤い陣羽織』です。)
 前記のとおり団員の意気込みは高かったのですが、創造面では手探り状態であったようです。島田氏によれば「演劇的に成功せしめ得る条件はどうであったかというと、発足にあたっては実にお寒い状況であった。まずスタッフの未熟である。演出の島田久は、乏しい経験と観念的な理論と青春のエネルギーとでなんとかものにしようとするだけであり、どんなことから手をつけるかを勉強しながら芝居づくりをする情況であった。キャストはたとえば、重要なガルドーニャ役を二ヶ月前になって、全く演劇に経験のない石原努を文字通りくどき落として引き受けてもらうありさまだった。」そうです。(ここに登場する石原氏は当時北陸銀行に勤務されており、同銀行の先輩であった島田氏、米田氏に半ば強制されて入団したようです。)
 そんな時に具体的な演技指導をしてくれたのが、昭和25年に北見高校を卒業し、毛利菊枝が主幹する京都の劇団「麦の会」に属していた三林賢蔵氏でした。(今では毛利菊枝と言っても若い人達は知らないでしょう。大谷直子がヒロインの1969年NHK連続ドラマ小説『信子とおばちゃん』で全国に親しまれた名女優で、劇団くるみ座の創始者です。1903生〜2001没)
 一時的に北見に帰ってきていた三林氏に1ヶ月稽古を見てもらったようですが、アトリエの床をたたき「ダメ出し」が何度も出るほど厳しい指導だったようで、河童OB座談会で山下カツエさんが「できるまでやらせるんです。皆んな泣かされました。稽古が終わるのはいつも一時過ぎなんですよ。今思うとよくやったと思います。それも若さゆえ出来たのでしょうね。」と言われ、石原努氏も「幾度かのダメに主役の可愛い子ちゃんは涙を流しながら最後まで毎夜の練習に耐えたものだ。全く敬服にあたいする日々であった。」と書かれています。この経験が団員を鍛え、創造面で結束させていったようです。
 カツラも衣装もポスターも団員の手作りで、舞台セットは金田明夫氏が担当されました。
 公演当日は、体育館に茣蓙をひき、400〜500人の観客が来たそうで、芝居は途中でヒューズが飛ぶ停電事故があったものの、団員の熱演で大変好評であったようです。
◇演劇と非演劇的行為(=経営)について
 島田氏は『二十年誌』で公演後を次のように記しています。「第一回公演を終って定着した団員は、演技の面では扇谷治男、美術その他は山崎祐春、経営は米田早苗、組織は島田久、といった役割が出来上がり相互に補いあいながら活動を続けることとなる。」
 特記しているのが、経営についてです。「戦後の民主的文化活動の発展の中で数多く出現した職場や地域の自立劇団(当時、僕等は業余劇団という言葉を使っていた)が、なぜ衰退して行ったかの反省の上で、演劇活動を進めるために基本的に必要でありながら演劇的でないために集団活動の中で軽視されがちになる経営の問題、すなわち非演劇的行為を劇団活動のポイントと位置づけた。PRと観客動員体制確立の成功は主として米田早苗の努力とプログラムに寄稿されている前記諸氏の御協力によるところが大である。」としています。
 米田氏自身も「私は、その貧乏所帯の劇団河童の台所を預っていた訳ですが、それ以前から好きでやっていた同人雑誌『河童』の貧乏所帯の切り回しと比べると幾分まだ楽のように思いました。同人雑誌の方は出版の出費ばかりで、収入は全くありませんでしたので、適当な映画を推せんして前売券を売り僅かな収入を得たり、ボーナスをつぎ込んだりしたものです。しかし、劇団の方は切符を売るという収入の道もあり、赤字は赤字でも『いつの日かの公演で』大部分は埋められるだろうという、希望のある赤字を重ねた訳です。」と書かれています。
 この経営の問題は、劇団に限らず永続的に団体活動を続けていくには現在でも重視すべきことです。確かに当面は個人が赤字を背負うことはできても、永遠とはなりません。いつかは破綻し、北見新劇研究会のように解散することとなります。いかに協力者を増やし、観客を増やし、経済的に安定し、同時に演劇として売る券金額以上の創造的な質を確保し、観客にお返しするか、そういう総体的な認識と行動が必要なのです。
 第2期の文化連盟を組織した林白言氏も、文化団体を維持するのに「非文化的行為」=券売りや多様な団体との日常的な協力関係構築の必要性を強調されていました。総合芸術といわれる演劇では、それが尚更必要なのです。演出家で北海道演劇史研究家の鈴木喜三夫先生が、劇団河童を「現在も、劇団活動を継続している道内で最も歴史ある劇団」と認定されている46年間あ
42-mamaまりの活動も、当初からの経営重視の方針があったからで、米田氏の功績は大きかったと思いました。
42-yokidarumaまたも訂正のお願い42-yokidaruma〜谷瑛子先生は「暎子」先生が正しい
 
お名前についてはできるだけ注意をしているのですが、また間違いをしてしまいました。
 前号の裏面で紹介した谷先生のお名前は、正しくは「暎子」なので訂正をお願いします。

 《中庭だより》 
☆41号をお送りしましたら、2月3日米田早苗氏の奥様からご丁寧お手紙を頂きました。お身内でも資料をお探し下さったのですが、いずれも処分した後だったとのことです。
☆同じく3日、島田久氏からお電話があり、6日には私が見た事もない貴重な資料類が届きました。今後の北見文化史に活用したいと思っています。ありがとうございます。
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