ヌプンケシ51号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.51
title
平成15年7月1日発行

◎秩父事件と井上伝蔵(6) 51-hana
 大正7年(1918)に井上伝蔵が死んでから後、一家がどうしたのか、いつまで家族が野付牛にいたか、誰に聞いても知りませんでした。当市にある「除籍」を辿ろうにも、昭和7年に起きた町役場の火事で焼失しているらしく、該当する資料が出てきません。そこで今号では、不十分ですが手元にある図書類で家族のその後を追跡してみたいと思います。
◇妻ミキはじめ家族はどうしたか?
 伝蔵は大正7年(1918)6月23日に死亡しましたが、翌24日、妻のミキは婚姻届と廃家届出を野付牛町役場に提出し、これにより野付牛町を介して江差町にあった高浜ミキの戸籍は除籍され、「埼玉県秩父郡下吉田村大字下吉田百二十一番地」の伝蔵の籍に母子6人全員が入籍、はれて高浜から井上に姓が変りました。
 息子の洋は父危篤の電報を伝蔵の弟、「ライサク」あてに打ち、6月13日に届いたものの宛名を「ライタロウ」と間違えたこともあって伝蔵の生存を信じてもらえず、役場を通した伝蔵の死亡を通知する第2信でやっと秩父から伯父とその子、義久が、来たこともない野付牛に半信半疑のまま駆けつけてくるのに対して、迷わないように家族あげて出迎えするなど丁重に対応して、ことの経緯を説明しました。また、新聞取材にも父の告白を基に対処したと思われます。洋は「同志の霊と遺族の方々を慰めてきてくれ」という父の遺言にしたがい、野付牛での葬儀万端が終わると、伯父らに同行して秩父の本葬に出席し、秩父事件で処刑された伝蔵の同志や遺族を弔問して歩いたようです。その後、鉄道をやめて、運送業にたずさわっていましたが、大正12年(1923)の関東大震災以降に、東京に出ていったようです。
 長女フミは、北見新聞の記者であった吉村与三吉(よそきち)と結婚、上京したようです。井上宅治が引き合わせたのか、伝蔵の先妻である古まの家に住んだそうです。
 二女ユキと末っ子郁雄は東京で新聞記者をしていた伝蔵の甥、井上宅治にひきとられました。「郁雄は時々北海道にきて、セツの夫勇の仕事を手伝い、アルバイトのようなことをしては、東京の高輪中学に通っていた。ユキも宅治家で行儀見習を、しっかり躾られる。しかしユキは、大正十三年八月十四日、病気のために亡くなっている。」弟郁雄も昭和八年(1932)九月十五日、病気のため25歳でなくなりました。
 次女のせつさんは、大正5年(1916)4月に札幌にあった逓信省の電信技手養成所にはいり、卒業後、野付牛の郵便局に勤めましたが、後に条件の良い鉄道の電信係に移りました。大正13年(1922)11月、土木関係の仕事をしていた佐藤勇と結婚して、その後、母ミキと一緒に釧路に引っ越したようです。いつ、引っ越したかは不明です。(以上『女たちの秩父事件』より)
◇伝蔵の家族はいつまで野付牛にいたか?
 井上郁雄は大正11年3月に西小学校を卒業していますから、上京し宅治宅に身を寄せたのは、その後と考えられます。
秩父困民党に生きた人びと 郁雄のスケッチ画  『秩父困民党に生きた人びと』に不鮮明ですが、郁雄のお世辞にも上手とはいえない前ページのスケッチ画が掲載されています。これを見ると、伝蔵の没後に一家が住んでいた住宅と稲荷神社が書かれています。ご覧のとおり、古道具屋ではなく、平屋の一般住宅でこれといった特徴はありません。(住宅の横に見えるのは、和服をほどいて洗濯したあとに布を乾燥させる張り板です。旗ではありません。)
 問題は稲荷神社です。説明に山下通とありますから、現在の山下町ロータリー広場にあった社殿です。この社殿は菅原政雄先生の『ある興業師伝』によれば昭和4年(1929)にできたことになっていますから、少なくとも昭和4年頃までは野付牛へ郁雄がバイトをかねて帰ってきて、スケッチをしたのではないでしょうか。
◇東京へ出た伝蔵の家族は・・・・
 結局、伝蔵一家は東京にあつまります。洋は東京へ移住後、自由民権運動にかかわり、政治家でもあった講談師、伊藤痴遊(1867〜1938)を訪ねて、釧路新聞など伝蔵の資料類を手渡しています。伊藤はこれをもとに講談「秩父暴動」を作って演じたほか、その講談と一緒に資料類を『伊藤痴遊全集』第九巻(昭和4年12月発行)に記録し、後世の秩父事件研究に大きく貢献しましたが、文中に「猶、伝蔵の遺子、洋という人が、著者を訪ねて来たのは、昨年のことであったが、その時の約束もあるから、殊更に煩を厭はず、此記事を全部紹介する次第である。」と書いてあるそうですから、遅くとも昭和3年頃には洋は上京していたことになります。
 せつさんたち佐藤一家も夫の仕事の関係で上京し、後には洋と一緒に住んでいます。
 晩年、「兄は結核でほとんど家を出ることはできない状態でした。そんな身体なのに人から頼まれては外へ出ていったようです。/一定の職業があるわけではありませんでした。私の主人が満州から送金してくれるので、それでほそぼそと暮らしていたんですよ、兄も。」と『秩父困民党に生きた人びと』でせつさんが語っていますが、洋は台湾出身の学生たちを援助したり、貧しい人たちの相談にのって役所とかけあったり、病院を世話したりと慈善活動をして、昭和11年(1936)42歳の若さで亡くなりました。
 「母ミキも、娘の手伝いや孫の面倒をみたりで、幸福な生活をしていた。/ある日、セツが出掛けている留守中、ミキは肉屋に買物に出掛け、電車が通り過ぎたのでだいじょうぶと思い、道路にでたとたんに自動車に跳ね飛ばされてしまった。それが原因で足が不自由になり、三年後の昭和十八年六月十三日、静かに永眠する。/『空喜雲妙大姉』六十六歳の生涯であった。」(『女たちの秩父事件』より)

佐藤せつさん写真 左の写真に写っている、井上伝蔵研究にとって貴重な証言を残してくれた佐藤せつさんも、中嶋幸三著『井上伝蔵』によれば「一九八七(昭和六十二)年、八十七歳の天寿をまっとうし、遺体は遺言により献体された。」そうです。なお、長女フミについては、残念ながらその消息が書いてある図書資料類を筆者は見つけることができませんでした。
 昭和7年に野付牛町役場が火事になっているために、古い行政資料から井上一家の消息を正確に再現できないのは本当に残念です。関係者が多数生存していた30年前に証言を集めて整理していたら、こんな悩みはなかったのでしょうが・・。
 次号は釧路新聞岡部清太郎のことやら、その後の調査で判明したことなどについて報告してみたいと思います。

 《中庭だより》 
☆先日、民衆史講座の佐藤毅先生とお話していたら、奥さんのお亡くなりになったお父さん、つまり義父が実は佐藤せつさんと郵便局時代の同僚で、デートした間柄であったことが分かりました。佐藤先生には、文章で記録してくれるようにお願いしました。
☆6月10日、『経済の伝書鳩』で「伝蔵の住所特定できず」との報道に対して、市民から4件ほど情報が寄せられ、ありがたく思っています。そのことも次号で・・・。
NO.52へ
よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館