ヌプンケシ54号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039


市史編さんニュース NO.54
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平成15年8月15日発行

画像ねこ◎『戦時ポスター展』開催ご案内

 前号でもご案内のとおり、8月13日(水)から20日(水)まで、北網圏北見文化センター
2階、講座室で戦時ポスター展が開催されています。展示されているポスター23点、標語3点は、昨年物故された市役所OBのお宅から発見され、このたび市にご寄贈頂くことになり、その披露も兼ねて一般公開することにしたものです。(ご遺族の希望でOBのご氏名は匿名といたします。)
 その大先輩は昭和12年、つまり日中戦争の最中に野付牛役場(現・北見市役所)に奉職されました。画家を志していた同氏は、戦時中役場内に貼られ、期間が過ぎて次々捨てられていたポスターのうち、横山大観、藤田嗣治など有名作家の作品や、デザイン的に優れた作品を拾って自宅に持ち帰り、保存されていたそうです。

第三十八回陸軍記念日 撃ちてし止まむポスター  8月12日、共催の北網圏北見文化センター職員と会場で展示作業をし、あらためて感じたのは、収集者の審美眼の確かさと作品の迫力でした。美術的な意味だけではなく、左に掲載した洋画家・宮本三郎が昭和18年(1943)制作した『第三十八回陸軍記念日 撃ちてし止まむ』のように、歴史的に見ても「時代の証言者」として大きな価値があります。(このポスターは最近上映された映画『スパイ・ゾルゲ』でも、空襲警報の場面でゾルゲの愛人が逃げ込んだ地下鉄構内に貼ってありましたが、お気づきでしょうか。)
 13日深夜、衛星第1で『さまよえる戦争画〜従軍画家と遺族達たちの証言』が放映されていましたが、戦中につくられた戦争画が「芸術作品」なのか、「宣伝扇動の道具」だったのか、敗戦後から今日まで議論を呼んできた事を明らかにしていました。取り上げられた画家の中には、今回展示したポスターの作家も多数登場しました。ポスターと直接関係ありませんが、戦後、中央画壇から離れ、「群れと個」をテーマに描き続け、昨年8月、倶知安町で死去した小川原脩が「画家にも(戦争)責任がある」と生前インタビューに答えていたのが印象的でした。
 「百聞は一見にしかず」、会場でポスターの現物をご覧ください。
◎ 岡部清太郎について         画像太陽と雲
 前号で岡部清太郎が渡道するまでの略歴が判明したことを、『経済の伝書鳩』が記事で取り上げたところ、岡部の孫にあたる甲斐公一郎氏(美幌町在住)からご連絡を頂き、また曾孫にあたる菊池祐弥氏(市内在住)からもお電話を頂きました。
◇甲斐公一郎氏の証言から
 甲斐氏には、8月11日の午前中、わざわざ当事務室にお越しくださいました。
 68歳の甲斐氏は岡部清太郎の長女・美寿子さんの長男で、甲斐氏の曾祖父は甲斐孫七郎氏と言い、相生線鉄道実現に功績のあった津別町の功労者で、父上は広島高等師範学校の出身で津別高校初代校長(町議会副議長も務めた)甲斐富士夫氏でした。富士夫氏は戦前、毎日新聞赤坂主筆(札幌師範卒)の招きで入社、小学生新聞の創刊にかかわったそうで、甲斐氏自身も昭和20年に小学5年生で津別町字双葉に疎開するまでは、大阪に暮らしていたそうです。
 前号で「岡部テル」さんのことを書きましたが、やはり彼女が清太郎の妻で、昭和24,5年頃には中国抑留から帰ってきた次男の三郎氏と暮らしていたとのことで、その住所は現在の中央小学校と夕陽が丘通りを挟んで反対側に立っているNTTの辺りで、昭和27年作成の市内戸別地図で確認できました。
◇岡部清太郎は紋別市に転出していた。
 テルさんは、道内池坊の重鎮として北見を離れることができず、清太郎は仕事の関係で長男である臣孝氏と紋別で暮らしていたそうです。紋別で清太郎は「北海タイムス」など記者の仕事をしていたそうで、これは『紋別市史』で事実確認しました。
 大正時代、清太郎は樺太あたりの木材取引で財を成し、政友会の有力メンバーとして、釧路新聞時代の部下であった尾崎天風よりも前に、国会議員になることも有望視された景気の良い時期もあったそうですが、東京に集中していた資産が大正12年(1923)の関東大震災で焼失したことや、地元で新聞創刊したこともあってか、挫折したとのことで、一時は妻の教授料収入で糊口をしのいだ時期もあり、最後は紋別で昭和27,8年頃に逝去され、妻テルは昭和30年代に北見で亡くなられたそうです。
 甲斐氏によると「母から聞いた話では、祖父は貧乏であった伝蔵一家を援助し、伝蔵が家族に告白する前から、その正体を知っていたようです。」とのことでした。
 甲斐氏は書籍販売のお仕事をされており、父上の関係もあって、高校教師で『秩父颪』を書いた小池喜孝先生のお宅にも親しく訪問され、祖父・岡部清太郎についても話をしていたそうですから、『秩父颪』での岡部についての情報源は甲斐氏であったと考えられます。
 甲斐氏からの情報で、紋別に清太郎の除籍がありそうなことや長男の妻、岡部トモエさんがお住まいであることや、旭川に岡部三郎氏がおられることが分かりました。この間、ポスター展の準備もあって画像お魚市内の菊池さんにもご挨拶していない状態ですが、早急にそれぞれの方々にご連絡をとりたいと思っております。
◇中嶋幸三氏からのお手紙
 8月11日の午後、『井上伝蔵 秩父事件と俳句』の著者である中嶋幸三氏からお手紙と資料が届きました。過日、当職から石狩尚古社資料館主である中島勝久氏に参考にお送りした、市史編さんニュースのコピーを見られたとのことで、「そこに、これまで謎とされていた岡部清太郎と土方常吉(抱月)の調査報告があり驚きました。よくぞ調べて下さったものです。」と思いもしないお言葉を頂きました。中嶋氏には当職からもご連絡を、と思ってご住所を調査していた矢先でしたので、幸運でした。
 現在、中嶋氏は『井上伝蔵 人と作品』を執筆中で、その草稿にある野付牛関係部分のコピーが同封されてありました。そこでも「この岡部とは何者か、この記事を書かしめた『釧路新聞』とは何か。——謎である。」と書かれています。その謎解きの一助になれば、これまでの調査も意味があったと思い、中嶋氏には現在手元にある資料類をお送りしました。

 《中庭だより》 
☆前号で伝蔵関係は一段落させて、当職が担当の現代史の調査を進めようと思ったのですが、岡部清太郎のこともあって、なかなかそんな簡単に整理できないようです。
☆このニュースもそれなりの働きをしていることを再認識いたしました。これからも皆様に信頼され、面白く読まれるように努力してまいりますので、ご支援ください。
☆8月6日、東相内にお住まいの屯田II世である今村実さんから、明治27年(1894)9月17日、日清戦争・黄海海戦で戦死し、軍歌「勇敢なる水兵」のモデルの一人とされる渡辺作治郎に関する資料提供と、渡辺一族が新潟県から野付牛に移住するに際して作治郎のお墓も移され、現在緑ヶ丘霊園にあることを教えて頂きました。市内の戦死者の墓標としては、一番古いでしょう。今年90歳の今村さんも戦時中は海軍で乗艦が沈没し漂流されるなどご苦労されたそうです。これからもお元気でお過ごしください。
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