ヌプンケシ57号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.57
title
平成15年10月1日発行

◎演劇『銃口』を観ましたか?

 9月6日、芸術文化ホールで三浦綾子原作の『銃口』が、前進座によって公演されましたが、観ましたか。この作品は、NHKで『教師竜太の青春』というテレビドラマにもなっており、また原作の小説を読んだ方もいることでしょうが、一応荒筋を書いておきます。
 銃口 表紙 旭川の質屋の息子=北森竜太が人間性豊かな恩師に出会い、感化を受け、自分も教師になります。教育に純粋な情熱を注いでいた彼が、幼馴染みで恋人の教師中原芳子に誘われて、札幌で開催された綴方講習会に一度参加したことを理由に、昭和16年「治安維持法」違反に問われ、執拗な尋問と拷問を受け、辞職を強制されます。釈放と同時に中国戦線へ送られ、各地を転戦、ソ連の参戦と共に敗走、朝鮮国境を越えようとした時、抗日パルチザンに捕らわれますが、その隊長が旭川で窮屈な作業員宿舎から脱出してきたのを一家あげて逃がした人物だったので、命を救われ、日本に帰り着くことができ、また新しい日本の教育のために、決意も新たに復職します。(この間に、感動的なエピソードがちりばめられているのですが、紙面の関係で割愛します。知りたい方は小説を読んでください。)綴方教育の指導者でもない、ただ教育熱心な青年教師さえも弾圧対象にした異常な時代を、舞台の限られた時間と空間を利用して巧みに描きだしていました。
 この主人公のモデルの一人が小川文武氏で、平成10年5月1日、84歳で亡くなっています。同日付、北海道新聞(夕刊)には「宗谷管内稚内町(現稚内市)で小学校教師を勤めていた1941年(昭和16年)1月、当時の特高警察に、戦時思想に反する教育を企画したとの疑いで連行され、数ヶ月間にわたる取り調べを受けた。戦後に教職に復帰し、74年3月、紋別市立上渚滑中校長を最後に定年退職した。当時の話については、家族に対しても詳しく語ろうとはしなかったが、作家三浦綾子さんが直接聞き取りして、90年、その実話をモチーフにした小説『銃口』が執筆された。/網走管内雄武町出身。(後略)」と書かれています。三浦綾子自身が戦中、教師として軍国教育を熱心に実践した苦い思い出があり、その反省もあっての執筆だったのでしょう。
◇北海道綴方教育連盟と弾圧の背景
 さて、この教育弾圧事件は一般に「北海道綴方(つづりかた)教育連盟事件」と言われています。
 その弾圧対象になった北海道綴方教育連盟は、北海道を生活の土台として子ども達に作文で現実をありのまま表現させようと、昭和10年(1935)8月7日、坂本亮、小笠原文治郎、小阪佐久馬の呼びかけで結成されました。事務同人で各地域の責任者は、道南が小笠原文治郎、道西が吉岡一郎、道北が小坂佐久馬、道東が坂本亮、網走地区が小鮒寛の、以上5名でした。北海道綴方教育連盟は、弾圧されるまでに『北海道文選』を15回発行したほか、百田宗治、波多野完治ら著名人を招いて「綴方講習会」を積極的に開催しました。
 それ以前の昭和8年末、コミンテルン第13回執行委員会総会で野坂参三が「日本に於ける勤労大衆の革命的闘争」と題して演説した中で、小学校教員への共産党の影響力について触れていることに治安当局が注目し、「赤い教員」取り締まりを強化していました。(『星霜6』より)
 全協(日本労働組合全国協議会)再建に絡んで昭和9年5月4日、治安維持法違反に問われて全道で8名が検挙され、その中に野付牛出身で、昭和6年旭川師範を卒業し、西小に赴任していた森田貞一もいました。その森田が「赤い教員」として教壇を追われたことに野付牛町民は大きなショックを受けました。
 昭和10年1月10日付、新聞『北見時論』の「北見の教育を語る座談会」に同席した思想取り締まり専門の特高刑事が、この事件を事例に教員の思想問題に関して次のように述べています。「そこで、このような思想方面に浸潤する道程を観ますのに、読書関係と同僚関係の感化、家庭の事情等が最大の原因をなしているようです。交友間の読書であるとか、又真の友達がないとか、親がないとか、兄弟が不具だとかの境遇にある者は、比較的多く地下に潜入する傾向があります。だから学校内に友達がない者は怪しいですね。それから思想拡張の方法として、歌、俳句の会、家庭訪問をして小作人対地主の隔離、童話、学校劇によって児童に植えつける等のような手段です。」この発言から、当時の教員達が生活のあらゆる面から監視されていたことがわかります。
 昭和12年7月には日中戦争を起こし、日本軍は自ら戦争の泥沼にはまり、昭和13年には国家総動員法が成立する等、全ての力が戦争に動員され、個人の自由は否定されていきました。
◇北海道綴方教育連盟事件と北見地域
 昭和15年(1940)2月に山形県で綴方指導内容が左翼的だという理由で、綴方教育指導者であった村山俊太郎が検挙され、その彼が昭和9年に設立された北日本国語教育連盟のメンバーだったことから、イモヅル式に連盟員が検挙された北方性綴方教育連盟事件が起きます。拷問による取調べの結果、共産主義を信奉する旨「自供」をしたとの報告が内務省に入り、同省は全国に「赤い教員」摘発を指示、特に北海道には保安課員を派遣して指導しました。
画像バラ
 その結果、治安維持法違反の名目で昭和15年11月21日、坂本亀松(釧路市・東栄小)、小鮒寛(網走郡・女満別小)、横山真(十勝郡・大津小)の3名がまず検挙され、翌16年1月10日には全道で相内小の岡本政治など連盟同人52名が検挙されました。
 昭和16年4月1日、国民学校令が施行され、学校そのものが将来の兵士養成機関として戦争体制に組み込まれ、昭和16年12月8日、真珠湾攻撃から太平洋戦争が始まります。
 結局、先の55人のうち12名が釧路検事局に送検されましたが、その「犯罪事実」はたとえば小学1年生が寝小便をして母親に叱られたことを書いたのを、担任が「はずかしいことだが、げんきよくかけましたね。げんきよくしょうじきにぢぶんのしたことをそのままかくと、つづりかたはじょうずになるね。」と書いた評言を、「生活真実の暗黒面を探索、其真相を暴露する方法を通し、階級意識に芽生えしむることを狙う指導言」とするなど、全くのこじつけでした。
 拘置は2年半の長期におよび、12名中、横山真が結核で死亡。昭和18年6月30日の判決では全員執行猶予つき有罪となりましたが、大戦中でしたから状況的に上訴は不可能でした。
 その判決で懲役2年、執行猶予5年と一番重い刑を受けたのが、綴方教育連盟で理論的、実践的な指導者であった女満別小の小鮒寛(1911〜1994)でした。昭和10年、北見教育会綴方研究部から『北見文選』が発行されていますが、彼はその主任で、副主任が管内学校校歌をたくさん作詞した大塚盈でした。児童用の「『北見文選』は、昭和10年(1935)9月から12年(1937)2月まで12回発行されたらしい。活版の1枚文集で、児童生徒の詩や作文を掲載、小学1・2年用、3・4年用、5・6年用、高等科用の4種類。毎回1万枚、一部一銭で管内の児童生徒に頒布された。」教師用『北見文選』も13回発行されていました。(以上『北見市史』下巻より)
 北見地域は、松樹美代治(画家・松樹路人の父親)校長指導の女満別小教育実践が全国から注目される等、教育の盛んな地域だったのです。その内容について興味のある方は菊地慶一・佐藤将寛共著『オホーツクの嵐に耐えて〜北見文選と生活綴方運動〜』を、また事件の概略については菅原政雄著『北見の文学ものがたり』を読んでください。いずれも市立図書館に所蔵されています。

 《中庭だより》 
☆この『銃口』より25年前、綴方教育連盟事件を劇化した芝居『オホーツクに生きる』が、昭和53年(1978)9月16日、北見市で開催された第8回北海道演劇祭で公演されたのをご存じですか。作者は石上慎(本名・石原敬三)氏で、出演者は北見の「河童」・紋別の「海鳴り」・美幌の「みみずく」など、オホーツクブロック各劇団員総動員でした。
NO.58へ
よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館