ヌプンケシ59号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.59
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平成15年11月1日発行

 今号は調査で明らかになったことを少し報告したいと思います。画像きく

 

◎昭和31年の菊花展の日程と会場は?

 前号では「菊まつり」をとりあげましたが、その中で『北見観光協会創立50周年記念誌』に昭和「31年の(第4回)からは同年7月に完成したばかりの小公園に会場を移転。」と書いてあるものの、その日程が手元資料では不明で調査が必要であることを書いておきました。
 それで今回、津幡調査員に市立図書館にある北見新聞を調べてもらったところ、昭和31年(1956)11月3日付に「日頃の丹精を競う/文化の日奏でる 菊花展幕ひらく」との見出しがあり、「日頃のケンを競う今年の菊花展は二日から四日迄の三日間北見商工会議所階上で開かれている」と書かれ、あとは入賞者の氏名と作品名が紹介されていました。この記事で日程は11月2日から4日までの3日間であることがわかりましたが、また会場は小公園ではなく、第1回目の昭和28年から会場になっていた北見商工会議所の2階で開催されたことになっています。
 先の記念誌が何を根拠に「小公園」としたのかは不明ですが、昭和31年までは菊花展会場を北見商工会議所とするのが妥当なようです。
 昭和32年からは、「市内を菊で埋め“菊の名所北見”の特色を打ち出そうとする伊谷構想の第一歩が菊花展だ」と同年10月27日付けの北見新聞にあるとおり、菊人形を目玉にして「菊の名所北見」を売り出すこととなり、その菊人形を配置する大きなスペースが要り、それで小公園が会場として利用されることとなったと見られます。
◇伊谷市長の構想
伊谷市長写真 翌28日付、北見新聞には「伊谷市長の構想によると来年はもう一度小公園で菊花展を開き、  
三十四年から野付牛公園を整備して会場を移そうと考えている。野付牛公園は池、木立、丘などバラエテイに富んでおり、ここに猿はじめ小動物のお家を建てさらにメリーゴーランド、回転木馬など子どもの一大遊園地とするもの。これは西への発展に反比例して全くの伸び悩みをかこっている市街地東部発展の導火線とする役割も含むものだ。加えて移転を開始した旧墓地跡の活用問題も東部発展の原動力にしようとその構想を練っており、市長さんの胸には一、二の素晴らしいプランが宿っているようだ。この旧墓地用地の活用と野付牛公園施設の充実と相まって近く○立する泉町の柏陽高新築が一体となって、東部発展の一大布石となり、更に競馬場付近もやがては大住宅街を形づくることも遠い夢ではなさそうだ。」と書かれています。(○は不鮮明文字—引用者)
 ここに述べられている「旧墓地」とは、現在の青葉町にあった屯田兵入植以来の「第1墓地」のことで、昭和35年10月に緑ヶ丘霊園が開園に伴い翌年廃止され、その跡地には警察署や合同庁舎が建設されました。野付牛公園内の遊園地設置構想も、昭和48年(1973)6月10日北見パークランド開園で実現し、第21回菊まつりの会場ともなりました。野付牛公園を会場としての菊まつりは、北網圏北見文化センター建設着工前の昭和56年、第29回まで続きました。伊谷市長は、このような都市再開発にも先見の明があったようです。画像どんぐりとりす


◎ 原鉄次郎か、原鉄二郎か?
 広報担当の依頼で市勢要覧用の年表(案)を作成していて、妙なことに気がつきました。
 幕末の松浦武四郎以後では、初めて明治15年に和人として北見地方に足を踏み入れ、当地域の様鉄二郎写真子を証言として残し、また中央道路開削の案内人にもなった「原」という人物の名について、昭和32年刊行の『北見市史』では「鉄次郎」とあるのに、昭和56年12月に刊行された『北見市史』上巻では「鉄二郎」になっていたことです。他資料を見ても、同様に混在していました。
 昭和32年版『北見市史』での原鉄次郎の記述は、屯田兵で北見の草分けであった池田七郎氏がまとめた『北見の黎明と野付牛の創業』にある「明治十五年大和十津川の人、原鉄次郎が釧路米町の人、戸川平太郎と共に馬十七頭を率ゐて、足寄を経て利別川を遡り常呂川右岸のケトナイ澤入口に着いたのは、青草萌へ出た許りの五月であった。彼は此処ケトナイ入口常呂川合流点に小屋掛をなし、付近の原野を焼き払って鹿角の拾集を始めたが、食糧が盡きたので、其年八月鹿角を駄載して、常呂川畔の鹿の小径を辿りノツケウシコタンに一泊した。」が種本になっていると思われます。
 『北見市史』上巻の文章は、鈴木三郎先生が書かれたもので、「鉄二郎」にしたのには何か根拠があってのことだと思われますが、その説明は私が読んだ限りではありませんでした。しかし、先の文章にある原に同行した「戸川平太郎」については、釧路市の農牧業の開祖と言われる「中戸川平太郎」を池田氏が誤記したものであろうとしています。
 原は網走に定住して、牧場経営に専念し、地元畜産業発展に尽く、明治34年8月に行われた道議会第1回議員選挙に当選した人物でありました。そこで昭和46年刊行の『網走市史』下巻関係記述を見ると全て「原鉄二郎」とありますので、鈴木先生はそれに従ったのかも知れません。
 念のため、網走市にある除籍を調査したところ、「明治弐拾八年拾月六日願済ノ上名称字形訂正」とあり、「鉄次」を縦棒で削除して横に「鉄二」と加えてあることがわかりました。ということは戸籍上では明治28年10月6日から、鉄二郎が正式であったということです。しかし、池田氏の記録は「大正十五年原鉄次郎七十三才ノ時筆者ヘノ直話デアル」とありますから、時には「鉄次郎」も使用していたのでしょう。これでは一概にどちらが間違いとは言えません。
 しかし当職としては、これからは「原鉄二郎」に表記を統一しておきたいと思っております。
 それともう一つ、『北見市史』上巻では、原の生年月日は安政9年(1862)1月16日となっていますが、年号を見ると安政は7年までしかありませんし、1862年は文久2年になります。没年月日は昭和5年(1930)4月21日で、『北見市史』上巻にある彼の享年は77歳となっています。また、昭和32年版『北見市史』の年表も77歳となっています。しかし、年号を無視して計算すると1930−1862では満68歳にしかなりません。68歳と77歳どちらが正しいのでしょうか。
 そこで、除籍での原鉄二郎の生年月日を見ると安政元年(1854)1月16日とあります。これであれば、数えで77歳になります。多分、鈴木先生が参考資料の「元」年を「九」年に読み違え、それを基に西暦も誤算してしまったのでしょう。
 以上2例を見ただけでも、「参考資料」を正しいと鵜呑みにして引用したり、「誤読」したり、「転記ミス」をしたものが「活字」になると、一般には正しい「事実」として通用してしまうことが分かると思います。筆者も市史編さんを担当する者として、十分注意しなくてはと反省させられました。あわせて参考にした資料は必ず明記しておくことも、後世の確認のためには必要であると思いました。こうした既存市史の事実確認、訂正作業も市史編さん事業の大切な仕事です。読者の皆さんも、市史に矛盾や疑問があれば市史編さん事務室へお知らせ願います。

 《中庭だより》 
☆10月20日、富山市にお住まいの島田久さんより、「ホーリネス教会」関係の資料が届きました。これらは島田さんが独力で集められたもので、筆者も初めてみる資料もあり、誠にありがとうございました。次は手記の方も重ねてよろしくお願いいたします。
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