ヌプンケシ60号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.60
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平成15年11月15日発行

◎ホーリネス教会について   kyoka
 島田久さんが来北のおりに、戦中、幸町の実家近くにあったホーリネス教会の日曜学校に通っていたことをお聞きして、ぜひその思い出を手記にして下さるようにお願いしました。
 というのは、一般には知られていませんが、戦中、ホーリネス教会の教義が天皇制に敵対していると判断され、治安維持法による宗教弾圧の対象となり、全国で相当の犠牲者を出しました。北見においても、信者がいた筈なのですが、証言や記録は遺されていません。それだけ、国の弾圧が厳しかったということでしょうか。島田さんが書いて下さると、筆者が初めて見る貴重な証言になります。そこで今号はホーリネス教会について概略をレポートしておきましょう。
◇『北見市史』下巻におけるホーリネス教会
 昭和58年12月発行の『北見市史』下巻にある、鈴木三郎先生が執筆した宗教関係の項でホーリネス教会は次のように紹介されています。
 「東洋宣教会ホーリネス教会  大正八年、南仲町の一角にホーリネス伝導館が設立された。東洋宣教会ホーリネス伝導会と称せられたが、大正十二年には自治教会と称せられた。この東洋宣教会というのは、明治三十四年ごろ、米人カウマンと日本人中田重治によって創立され、日本と中国方面の布教に当たった宗派であった。大正八年、二条西二丁目に移転し、大正十四年に本格的教会堂を改築し、十五年には福音使大森小一郎が来任した。当時信徒五十二名、日曜学校生徒六十名だった。昭和十三年ごろ、現幸町に移転したが、十七年ごろ閉鎖した。」
 内容を点検して見ると、大正15年12月発行の『野付牛町誌』からの引用がほとんどで、昭和のことは伝聞で書かれたらしく、弾圧された事については全く触れられていません。
◇調べて分かったこと。
 まず「大正八年、南仲町」とあるのですが、『北見教会史年表 1900年〜2000年』には大正5年の項に「ホーリネス教会野付牛教会設立」とありますし、1974年7月に発行された『北見の女』創刊号の新井三之助さんからの聞き書きでは、大正6年のこととして「ホーリネス教会の池田牧師は、ちょうちんをつけて、『信
horinずる者は誰もた〜だ信ぜよ〜。み〜な救われん。』と歌をうたって、太鼓をたたいてみんなが集まってくると、説教していました。」と証言されています。ということは、ホーリネス教会が野付牛に最初の足跡を印したのは、「大正8年」ではなくて「大正5年」が正しいように思われます。南仲町にあったかどうかは資料がなくて判断できません。
 2条西2丁目にあったことは、昭和39年5月13日付、北見新聞の特集『街』の中で同町内で薬局を営んでいた兼重さんの御婆さんの話として「いま辰己さんのいらっしゃるところはトラヤパンさんがお建てになったものですが、以前ここはホーリネス派の教会がございましてね、ずいぶんたくさんのご信者のお参りがありました。」と記録されていますし、左に掲示した昭和8年の市内地図でも確認できます。
 昭和13年ごろに当時の高台新町(現在の幸町1丁目1−28)に移転してきたのは、島田久さんの記憶にもあり、コロで
horiness建物ごと引いてきたそうです。左は昭和27年の市内地図ですが、通称「新井通り」の角の空家の所が教会跡のようです。島田さんからお聞きしたお話では、牧師さんが兵隊に召集され、その時、軍歌ではなく、賛美歌を歌って見送ったとのことでした。奥さんが留守を守っていたそうですが、島田さんから頂いた資料によると、「小森谷はつ」というお名前で、昭和18年(1943)4月7日を期して「結社禁止の処分」を受け、教会を解散させられました。当時は「日本聖教会野付牛高台教会」と称していたようです。
◇ホーリネス教会とは?
 島田さんから頂戴した『福音と世界』1983年9月号掲載の金田隆一論文「日本基督教会とホーリネス教会」の説明によると、ホーリネス教会とは「英国人ジョン・ウェスレーによって創始され、米国において発達したメソジスト教会の流れをくむプロテスタントの一教派で、かつて同派の伝道者であった中田重治が、シカゴムーディ聖書学院で学んだ結果、キリストの再臨を感得し、一八九八年帰朝以来、米国宣教師カウマン夫妻と共同して、東洋宣教会ホーリネス教会を組織したことに始まる。(中略)この教派の教義は、聖書を神の言葉、予言の書として絶対化する根本主義に立脚し、新生、聖化、神癒、再臨を四重の福音と称し、高踏な神学を『死に学』にたとえ、平易な言葉による実践的大衆伝道に重点をおいた。」とあります。
 昭和4年(1929)の大恐慌以降、日本は戦争への道を進み、国民を統制し、動員するための手段として神道を利用し、神社参拝は国民の忠誠心を測るバロメーターになりました。当然、キリスト教信者にも神社参拝が強制されましたが、昭和5年(1930)4月開催された日本ホーリネス教会第12回年会で神社を宗教として拒否することを決め、満州その他で問題となりました。昭和11年(1936)、ホーリネス教会は伝道主義を守る「聖教会」と、愛国主義を強めた中田重治らの「きよめ教会」に和協分離します。
◇なぜ弾圧されたか。
 政府は、国策にそった宗教統制を容易にするため、昭和14年(1939)4月「宗教団体法」を公布し、仏教は13宗56宗派を13宗28宗派に、キリスト教は新旧教の日本キリスト教団、日本天主公教団の二教団に統合させる方針をとりました。弾圧をさけるため、大陸に従軍牧師を派遣したり、神道と習合して皇道キリスト教を唱えるなど、戦争協力に積極的に関係するキリスト教派も出てきました。昭和15年10月、「皇紀二千六百年奉祝」全国基督教信徒大会は「全基督教会合同の完成を期す」ことを宣言し、昭和16年6月に諸教派連合組織である日本基督教団が結成され、先に書いたホーリネス系教会も参加しました。
 しかし、より統制しやすく一元化を促進するために、「聖教会」と「きよめ教会」が見せしめに弾圧されたのでした。昭和17年6月26日、治安維持法違反で全国で85名が検挙されましたが、容疑内容はスパイ行為、神社参拝拒否、ユダヤ人援助、キリスト再臨(キリストが再びこの世に現れること)の教理でしたが、最大の争点はキリスト再臨説で、天皇を絶対とする国体に反する教義と断定されたのでした。翌年2月の第二次弾圧と合わせて検挙者は全部で116名になり、その内19名が実刑判決をうけ、7名が獄死・病死しています。また、先の野付牛高台教会をはじめ全国で249の教会と伝道所の活動が禁止されました。
 こうした事実は、敗戦になるまで一般に新聞報道されることはありませんでした。

《中庭だより》 
☆新聞でご覧になったように『草の乱』の北見ロケが残念ながら中止になりました。当職自身は井上伝蔵関係を再調査する機会を得てよかったと感謝しております。
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