ヌプンケシ64号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.64
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平成16年1月15日発行

◎馬橇の御者から代議士へ「尾崎天風」(2)               
 『北海道の新聞と新聞人』によると、尾崎天風は大正9年(1920)に『北海道新聞』を始めたものの、大掛かりな盗伐事件「置戸事件に引っかかり未決に収容される、新聞は休刊するといふ始末で、具に辛酸を甞め尾崎君が釈放後上京し今井君等と共に雑誌『土木と労働』を発刊しその方に専念することとなった」とあります。その後、私設秘書づらして大木鉄道大臣のところに出入りし、そこで前号で紹介したとおり、大正11年頃に永井金次郎樺太長官と偶然名刺交換をしたのを利用して、まんまと「木材取引」の利権にありつき、選挙運動資金の基盤を確立したようで、全く、ただでは起きない人物です。しかも、大正12年(1923)の関東大震災で岡部清太郎が資産を失ったのとは反対に、尾崎は木材の急騰でこれまた大儲けしたとのことです。
◇湧網線開通運動で政治活動
 その尾崎の政治活動は、海岸線を走る中湧別・網走間の湧網線開通運動に始ま
yumoるようで、『さろまむかしむかし』では、次のように記述されています。
 野付牛から上湧別を経て紋別より名寄に至る「山の手線が開通したのは大正十年五月であった。地元民は大正八年、中湧別開発期成会を結成して再び運動を開始した。/尾崎天風は、常呂から代表の一人として東武代議士と共に、道の関係機関に大しての陳情団に名を連ねている。/大正十年十月中湧別で、沿線五カ町村連合大会が開かれ、本線促進の宣言が決議される。佐呂間から林由一、常呂から天風が出席している。度重なる陳情運動の成果もあり、昭和三年十月、中佐呂間において関係五カ町村連合大会が開催され、この時、尾崎天風が湧網線速成期成会長に就任した。/百太郎の天風は今や押しも押されない、名士になっていた。」鉄道大臣の所へ出入りしていた云々も、最初は情報収集の狙いがあったかもしれません。 
 その地域住民の悲願であった湧網線が全線開通するのは昭和28年(1953)10月で、中佐呂間で行われた祝賀会に尾崎天風は功労者として招待されました。しかし、昭和62年(1987)3月には湧網線は赤字路線として、廃線になりました。
◇代議士・尾崎天風
 昭和7年(1932)2月、尾崎天風は道5区において政友会から出馬、1万8,511票を得て念願の衆議院議員になります。道立図書館からコピーして頂いた、昭和8年刊行『日本人事名鑑』上巻の尾崎天風の項で、どのように略歴が紹介されているか、見てみましょう。
 職業は「木材業」とあり、住所も「東京市渋谷区栄通一ノ三四」となっています。「【略歴】佐賀県尾崎重吉の三男 明治十九年十二月廿五日同県藤津郡に出生 同四十五年分家す 夙に結城漢学塾堂に学び 北海道に渡り 日東新聞記者北海タイムス通信員北海道新聞社長等を経て 次で大正八年上京 建設新聞社を創立其社長に就任せしむが後 木材業を創む 昭和七年二月衆議院議員に当選 立憲政友会所属たり 宗教禅宗 趣味囲碁読書旅行 【家庭】妻初子(明三六)新潟県曾我平吉長女 東京女高師文科卒 長男克己(大一三) 長女安子(昭二) 二男俊巳(昭四)」
 これでは26歳で分家してから渡道し、新聞記者になったことになり、実際の12歳で常呂に移住し、佐呂間で馬追いや御者をやり、長じて料理屋を経営したことは一切書かれていません。
 昭和11年(1936)2月の選挙でも尾崎は1万5,159票を得て当選しますが、当時の議員評判記を読むと尾崎の政治活動は選挙目当ての露骨な利益誘導で、有産知識階層には相当悪評だったようです。そのためか、昭和12年4月の選挙では、1万2,147票で次点に泣き、落選します。
 落選後も東京で陳情の窓口をやっていたらしく、昭和16年4月に相内村で48戸72棟が焼失する大火があり、そのため当時の河原鶴造村長が同年11月大蔵省に起債の陳情に赴いた時に同行したのが尾崎で「骨稜々たる氏は快諾して呉れ翌朝自動車を駆って大蔵省に乗込んだ、強引戦法は同氏の得意とするところ真っ先に大蔵次官室に飛び込んだ、まるで押込強請だ」と河原村長が自伝『敗残囈語』に書いています。石北峠開削運動への尽力も同様だったでしょう。
◇翼賛選挙と尾崎天風
 昭和12年に日本政府は日中戦争を始めて以降、泥沼化した戦争と国際的な孤立により、経済的にも逼迫した時代になりましたが、国民を一層戦争に駆り立てるため、昭和15年10月「臣道実践・職域奉公」を掲げる大政翼賛会を公事結社として創立しました。昭和16年12月、太平洋戦争に突入し、「大東亜戦争完遂」が打ち出されました。
 その「聖戦完ついに不可欠の政治新体制の確立」を図るため、昭和17年4月総選挙が実施されましたが、全議席に大政翼賛会の推薦者が指定されるという、最初から結果が見えた選挙でした。当然5区の定員4名にも東條貞・南雲正朔・奥野小四郎・黒澤酉蔵が推薦され、当選しました。「非推薦候補者」3人の1人として尾崎(職業・鉱業)は立候補し、次点1万2,349票で落選しました。政党は全て解散し、大政翼賛会の方針に反する非推薦候補者の選挙運動には、警察から厳しい干渉が加えられたそうですから、その意味では善戦したと言えるでしょう。
 その後の彼がどうしたか、知ることのできる資料は手元にありません。ただ戦後、映画『馬喰一代』がヒットすると、ちゃっかり「銭コの六」「小坂六太郎」と投票しても有効であるとの届出をし、昭和27年10月の選挙に自由党から立候補し、見事落選したことは分かっています。
◇尾崎の郷里・佐賀県鹿島市では
 次に伊藤調査員が佐賀県立図書館からコピーを取り寄せた、尾崎の郷里である鹿島市史執筆委員会編『鹿島の人物誌』(昭和62年3月発行)にある、尾崎天風の略歴を見てみましょう。

kasima 「一八八六年(明治一九)一二月二九日〜一九六〇年(昭和三五)三月
二四日。七三歳。国会議員。/古枝中尾に生まれた。軍役後、上京して報知新聞の記者となり、「天風」の名で健筆を振るった。記者のころ北海道の森林を入手していたが、関東大震災で木材市況が活発となり、財を成した。一九三二年(昭和七)の衆議院選挙に北海道五区から出馬し当選、北海道北見に本拠を置き、政治活動に専念した。特に、北見地方の開拓には道路が不可欠であるとして、旭川と知床を結ぶ国道の建設に努力し、その実現をみた。この国道の難所である石北峠には、地元民による天風顕彰の碑が立てられている。/また、郷里を思う心は篤く、特に浜駅開設に尽力したと伝えられている。長崎本線の開通に伴い、浜駅設置の要望が強かったが、鹿島駅との間があまりにも短いという理由で難渋していた。時の鉄道大臣小川平吉代議士とは、新聞記者の頃から親しく、地元民の強い要望を受けて尾崎代議士は、大臣へ直談判をし、その実現に至ったという。」 見てのとおり北海道での「行状」が完全に欠落しています。これでは20歳以後に上京し、一流新聞記者になって「北海道の森林を入手」して、とんとん拍子に国会議員になった、全然別の「出世話」です。成功者・尾崎にとって、北海道での生活=「過去」は封印すべき事だったのでしょう。実際、彼が少年時代に暖かい九州から寒い北海道へ、何故やって来たのか、具体的なことを記述した資料・情報は、私の知る限り出てきませんでした。過去を隠し、故郷へ錦を飾った尾崎にとって「北海道」とは何だったのでしょうか。(完)

 《中庭だより》 
☆尾崎天風は断片的な情報しかなく、筆者にはずっと謎の人物でした。今回、何とか略歴を探り、少し胸のつかえがおりました。しかし、尾崎の「経歴」が北海道と「内地」では違うのには恐れ入りました。尾崎は「二つの顔」を使い分けていた、ということでしょうか。
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