ヌプンケシ65号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.65
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平成16年2月1日発行

◎北見で電灯がついたのはいつか?dento
 昨年12月15日に「北見で電灯がついたのはいつですか。」と、映画『草の乱』のスタッフから電話で質naoto問がありました。1月11日の日本経済新聞に、『草の乱』の紹介があり、左の写真が掲載されていましたが、多分、この伝蔵の臨終シーンの室内セットを組むのに、大正7年(1918)当時の室内照明がランプか電灯か、時代考証が必要だったのでしょう。『北見市史』年表編を見ると、大正4年(1915)9月の項に「火力発電所竣工、町内点灯を開始する。」とありますから、その旨回答しておきました。
 ただし、昭和32年発刊『躍進北見市の全貌』にある古老による座談会で、姫野近喜氏が「電気会社は大正四年に私らが作った。鈴木や前田に相談したら、月二、三分の金を借りていつ配当があるかもわからん会社をやれるか、といわれた。初めは一六〇灯で火力発電。そろばんには合わなかった。ランプの方が安くつくと一流の者がいうので大変だった。しかし子どもが、どこそこにも電灯がついた、うちにもつけて……とせがむので、どんどんふえた。」とあり、電灯の数が160灯に対して大正4年の戸数は2,677戸ですから、庶民は圧倒的にランプを使用していたようです。従って、井上伝蔵の家は大正7年当時ランプだった可能性が高いと考えます。聞くところによれば、『草の乱』は本年11月に一般公開されるそうですから、映画ではランプと電灯のどちらを選択したか、今から楽しみです。
◇北見火力電気株式会社
 昭和44年(1969)の北海道新聞に、東小2期生で、昭和35年に52歳で亡くなられた西村肇さんが明治・大正時代の野付牛の風景や風俗を描いた絵をもとに「野付牛のおもかげ」という特集の連載があり、10月25日、第13回目には「電灯がついた」と題した次の記事がありました。
 「北見に電灯がつき、ランプ生活に別れを告げたのは大正四年。そのとき一番喜んだのは、もう朝晩ランプのホヤをみがかなくてもよくなった商店の従業員や子どもたちだった。道内で電灯が最初についたのは札幌で明治二十四年のこと。北見はおそいほうにはいる。/大正の初め、とん田兵出身の姫野近喜さんらを中心に、北見にも火力発電所をつくろうという機運が盛り上がった。“ランプから電灯へ”では意見が一致したものの、当時はマチの政争が激しく、いろいろ曲折を重ね、大正三年になってやっと北見火力電気株式会社が創立された。/発電所は市内七条西二(正しくは西4丁目—引用者)、今の天恵寺(現在はオホーツクビール園—引用者)前に建った。そのころ周囲は草や木がおい茂り、たずねる人も少なかった。水津倉太さん(七三)=市内常盤町三=は『そこはちょうど一本道の行き詰まり。秋になると、よくブドウを採りに行きました。発電所は二階建てのかなり大きな建て物でしたよ』と、そのころを思い出す。/最初に電灯がついたところは駅前通りのいまの富士銀行(現在は北海道銀行—引用者)北見支店前。『今晩電灯がつくぞ』人づてに伝えられて黒山の人だかり。赤くともったのを驚きの目で見張り、その場でみんな電球を買い、つけ方を教えてもらって家路へと急いだという。/初めて電灯を見た人にとっては、かなりびっくりしたようだ。『パッとついたとたんに“火事だ水、水”と叫んだおやじさん』『電灯でキセルのたばこに火をつけようと、なんべんも試みたおじさん』−逸話がいまに語り伝えられている。当時の電灯は現在に比べて薄暗く、そのうえ、たびたびの停電や電力低下で住民から“ホタル電気”のアダ名をつけられた。(後略)」しかも、夜しか送電されませんでした。
 『写真集 明治・大正・昭和 北見』を見ると、大正4年には停車場通り(現在の中央通り)、大通り(国道39号線)沿いに電柱が見えます。大正6年発行の『北見國 野付牛要覧』にも同様の写真がありますが、その他の広告写真を子細に眺めると、商家のまわりに電柱が見当たりません。ですから、当初は駅前あたりにしか、電灯は普及しなかったのかもしれません。
 それにしても、初めて電灯を見た人たちは、電球だけ買って帰って、どうしたのでしょうか。記念として家の中に飾ったのでしょうか。不思議です。  
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◇火力は木炭
 火力と言っても、戦時中の木炭バスと同じく燃料は木炭で、そのガスを動力に発電機を回していたそうです。
hatude下の絵は、大正8年ごろの発電所内の様子です。左端のタンク状のものがガス発 生装置で、炭を5俵いれたそうです。お話にならないくらい、性能が悪かったようです。
  『北見市史』年表編によると、火力発電とは別に水力発電の動きもあったようで「大正4年6月10日 かねてムカ川の水力を利用し野付牛一帯に電灯の電力を供給するため北見電気株式会社を設立し、株を募集していたが満株となり、第1回払込完了、この日設立総会を開く。」とあります。
 昭和39年9月発行『留辺蘂町史』を見ると、「温根湯地区では帯広市の高倉安次郎が北見電気株式会社を創設、現在の温根湯神社から約五十メートル東方の斜面を利用し水力による発電事業をおこしたのが大正6年である。」とあり、大正7年の「北見電気株式会社武華発電所」の写真が掲載されています。ただし、その電力の供給地は温根湯・留辺蘂両市街地でした。
 昭和13年発行の『新興の野付牛大鑑』にある大日本電力株式会社の社史概要によれば、北見火力電気株式会社は、大正8年に北見電気株式会社に吸収され、その後、道内各地にあった会社と次々に合併を繰り返し、北海道電気株式会社、富士電気株式会社と改称し、大正10年12月には北海道電燈株式会社、昭和9年12月には大日本電力株式会社となったようです。
 大正12年刊行の『野付牛総覧』の付録地図を見ると、北6条西6丁目に「発電所」の記号がありますから、大正末頃まで北見では火力発電で電力を供給していたようで『野付牛町勢一班』大正14年版では、大正13年12月末現在で発電力は280キロワット、電灯供給戸数は3,493戸になっています。大正13年の野付牛町の全体戸数が4,855戸ですから、単純計算しても7割以上の家庭に電灯が普及した計算になります。『同』大正10年版には大正9年11月現在で、発電力が80キロボルトアンペア、供給戸数は1,204戸とありますから、短期間に大変な伸び率です。
 大正13年に湧別川発電所が完成することによって、昭和の初めには北見でも電力の安定供給がなされるようになったようですが、具体的な記録は、これまでの『北見市史』等には何も出てきません。また、電力関係の資料が全くありません。今後とも資料収集と調査が必要なようです。

 《中庭だより》 
☆1月14日〜16日と吹雪が続き、積雪171センチという筆者56年の人生でも体験したことのない豪雪になりました。ところで昭和36年5月23日付、北見新聞の特集『街』に、古老の話として明治41年(1908)3月18日に北見国一帯に記録的な大豪雪があり、降雪量一丈(3メートル30センチ)に達したという記事がありました。これまた想像を絶する量ですね。
☆小泉内閣による自衛隊のイラク派遣が本格化しつつあります。皇軍の中でも「勇猛果敢」で有名な第七師団ゆかりの旭川の部隊が中心とか。今後の動向に注目したいと思います。
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