ヌプンケシ66号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.66
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平成16年2月15日発行

◎北見スキー事始め house1
 冬といえば、ウィンタースポーツですが、楽しんでいますか。
 1月の豪雪で除雪に追いまくられて雪を見るだけでウンザリ、遊ぶ気にもならないし、それどころか時間的余裕もないのが本音でしょうか。でも、今回は北見での「スキー事始め」について書いてみたいと思いますので、しばし、息抜きにお付き合いください。
◇アイヌはスキーをしたか?
 さて、そこで北見のことを書くとすれば、まずアイヌのことを抜かすわけにはいきません。北見にいたアイヌは果たしてスキーをしたのでしょうか。文献を読むかぎり、北海道のアイヌは雪中を行動するのに、かんじきを使用していたようです。言葉や作法からアイヌと関係があると言われる、本州の古くからの猟師集団=マタギもかんじきで行動していました。だから、北見に住んでいたアイヌたちも多分かんじきで冬を過ごしていたことでしょう。

ainu ただし、北方民族と接触していた樺太アイヌは、犬橇のほかに、この便利な道具、スキーを利用して冬の狩をしていたようです。実際、間宮林蔵が1808〜1809年の樺太探検で見聞したことを基に、1810年松前奉行所の役人、村上貞助が訊問して、編纂した地誌『北蝦夷図説』に、槍を持ち、短いスキーに乗っている原住民が描かれています。左がその図です。簡素ですが、どう見てもスキーですね。小手をかざして、獲物でも探しているようです。
 スキーの起源は古く、5〜6000年前にさかのぼると言われ、具体的な遺物としては紀元前2500年頃のものと見られるスキーの実物がスウェーデンで発見されたそうです。北欧神話の中にもスキーの神様が出てくるそうですから、生活に密着していたのでしょう。ノルウェーでもスキーは古くから使用され、850年頃には戦争でのスキー部隊の記述があるそうです。狩猟を中心として生活していた北方民族にとってスキーは生活必需品となり、どんどん伝播し、樺太アイヌにまで伝わったということでしょう。
◇日本にスキーが伝わったのは?
 明治に入って、記録されないまでも、外国人がスキーを多数持ち込んでいたのは間違いないようで、少年時代の明治28年ごろにスキーに乗って遊んでいたという札幌月寒歩兵連隊の三瓶勝美中尉の資料もあるそうです。一応、日本人で最初にスキーに試乗した人物として記録されているのは、青森県の豪商、野村治三郎だそうで、明治37年(1904)にノルウェーよりスキー2台を輸入しているとのことです。
 明治41年(1908)7月にドイツ語教師として北海道大学予科に赴任してきたハンス・コラーが、翌年母国スイスから両杖式スキーを取り寄せ、学生に紹介したそうですが、実技の指導はなかったようです。しかし、このスキーを見本として、日本で初めてスキーが製作されたと言われます。これが北海道での「事始め」とされています。
 しかし、何と言っても、日本のスキーに大きな足跡を遺したのは、明治44年(1911)、新潟県高田歩兵連隊に配属されたテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐(オーストリア)で、青年将校10名をスキー専修員として系統的に指導しました。

reruhi 翌明治45年には、レルヒは旭川第七師団の野砲第七連隊付の中佐として来道、全道各地から集まった青年将校にスキーを指導したほか、北海道各地でもスキーを指導しました。
◇レルヒに直接指導を受けた滝野市長
 昭和38年(1963)〜42年まで北見市長であった滝野啓次郎氏は多才な趣味人であったらしく、北見新聞連載シリーズ『街』、昭和39年7月4日付によると、大正5年(1916)に野付牛に転入する前は旭川に居住していたとあり、「北見スキーの草分け」として次のように紹介されています。
 「野付牛に撞球が盛んになったころから冬のスポーツとしてスキーが移入されている。ここでも草分けの人として滝野さんが登場する。大正5年ころはまだ単杖式(ストックが一本)で、スキーの台もアルパイン式というオーストリヤ系のものだったそうである。わが国にスキーを紹介し、その技術指導に功のあったオーストリヤのレルヒ中佐の影響であろうが、レ中佐は柏崎の連隊で指導、その翌年旭川の七師団で指導している。当時旭川中学の生徒だった滝野少年も早速ウィンタ ースポーツに熱中、レ中佐の颯爽の勇姿に接しながら手をとって指導を受けたものという。」大正5年頃が北見スキーの草創のようで、一般庶民も見よう見まねで手製の下駄スキーを作り、今でいう歩くスキーを楽しんでいたそうです。現在の幸町、美芳町、寿町などは、谷また谷と起伏に富んだところでしたので、子ども達の格好の遊び場になっていました。
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◇野付牛スキークラブ
 『北見市史』年表編によると、大正11年(1922)にはスキー人口も増えたらしく大滝野付牛保線区長を会長に野付牛スキークラブが結成され、翌12年1月には、「野付牛スキークラブ会長河西貴一ら、旭川第7師団から池貝大尉を招き、ピアソンの丘で単杖スキーを受講」とあります。
 昭和3年(1928)には「野付牛中学校スキー部員と町内愛好家、裏山(三角点か?−引用者)に20mクラスのジャンプ台を作る。」とあり、昭和5年、第1回全道中学校スキー大会が札幌の新井山で開催され、河西博さんが30メートルを飛び、全道2位という立派な成績をあげています。
 菅原政雄著『北見の文学ものがたり』に、北見新聞に関係した作家、福島豊がペンネーム古宇伸太郎で昭和15年に発表した『蛾性の女』に、昭和10年頃のスキーに興じる男女の様子が描写されていることが紹介されています。その文章の「K町には三つのゲレンデがあって、P丘が初心者向き、S沢は中級者、熟練者は三角山へ行くのである。」を、次のように解説しています。「P丘はピアソン館に近いピアソンの丘スキー場でしょう。これはスキー場としては野付牛で最も古いものでした。S沢はその西にある三吉神社の坂でしょうか。三角山は今の霊園のあたり、三角点のスロープと思われます。この他に、現老人ホームの裏山にある公平スキー場が設けられ、さらに若松の道路をへだてて平田山スキー場が出来、ここで町内や管内のスキー大会が催されるようになりました。又高台のずっと東に馬の背と呼ばれるスロープもありました。」思い当たるゲレンデはありましたか。こうすると戦前も北見市民はスキーを楽しんでいたようですね。

 《中庭だより》 
☆2月6日、北電さんから『北見地区電気事業史』の抜粋コピーを伊藤調査員が頂いてきました。これで問題解決と喜んでみたところ、当方が初見の「北見水力電気株式会社」があったり、ますます疑問が膨らんでしまいました。電気関係については、もっと資料を集め、裏づけのある仕事をしなくてはと思っております。本当に分からないことばかりです。(ため息)
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