ヌプンケシ67号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.67
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平成16年3月1日発行

◎日露戦争100年 (1)
 100年前の明治37年(1904)2月8日、日本陸軍は朝鮮の仁川に上陸、海軍は旅順口外のロシア艦隊を奇襲攻撃して、日露戦争は実質始まりました。攻撃は2月4日の御前会議で決定済みで、6日にはぺテルブルグで、ロシア政府に対して国交断絶と10日の外交団引き揚げを通告し、同日、佐世保から奇襲作戦のため、連合艦隊と陸軍輸送船が発進していたのです。9日、ロシアは断固たる措置をとるとして、日本に宣戦布告。10日には日本もロシアに宣戦布告しました。
 この戦争の原因が朝鮮と満州(中国東北部)の占有争いであったことは、皆さんご存じのとおりで、あわせてロシアの南下政策に危惧を感じたイギリスが、日本がロシアに対抗する「極東の憲兵」になることを期待し、明治35年に結んだ「日英同盟」に支えられた戦争でもありました。実際、日本海海戦で活躍した
kais「三笠」等新鋭艦はほとんど英国製でした。戦費20億余円うち12億円が国債で賄われ、そのうち8億円余が外債であったそうです。つまり、日本は借金で戦争をしたようなものです。ですから、奉天で25万の日本軍を投入して戦闘に勝利しながら、砲弾は無い有様で、戦争継続の余力も無く、バルチック艦隊壊滅を機にアメリカの仲裁で、明治38年(1905)9月ポーツマス講和条約に調印せざるを得なかったのです。その結果、日本は朝鮮支配をrengoukanta公認され、満州での利権を得、しかも樺太南半部を獲得しましたが、期待した賠償金は得られませんでした。日本の動員兵力は約109万人で、8万人以上が戦死し、40万人が重傷を負いました。真相を知らぬ、講和条件に不満な民衆は暴動を起こしました。
◇北見での「日露戦争」
 この北見でも、日露戦争は大きな影を落としました。北見屯田は明治36年3月末に現役解除され、農民としての一歩を踏み出して間もなくで、戸主で働き手の中心であった夫や息子を後備兵として全員動員されたことは農家にとって大変な損失になりました。昭和11年11月1日調『屯田兵村現況調』でも、「挙村出征ノ銃後ノ守リノタメニ不安ノ時代ヲ現出シ男子ナキ家庭ハ常ニ一歩遅レテ経済的ノ退歩ヲ示セルモノアリ経済上ノ差等ヲ生スルニ至ル」と報告されています。 
 端野町長であった中沢広氏が著者の『開拓夜話』に、父親から聞いた話を「日露戦争の思い出」と題して書かれていますが、当時の人々は内地の親類から『萬朝報』(よろずちょうほう)等新聞類を定期的に送ってもらっており、2月の開戦以降の戦況の動向に注目していたようです。
 「二月十日に宣戦布告してから四ヵ月というのに、はや弾薬が不足しかけたとか、食糧が不足して缶詰に石が入って居たとか、いやなうわささが流れたり、常陸丸が朝鮮海峡で撃沈されて、補給路が不安なため、十分に物資も兵隊に送れないので、遼陽の攻撃が1ヵ月延期されたというような話さえこんな田舎にまで伝わっていた。/第二軍の南山攻撃では、露助が機関銃という素晴らしい連続射撃の銃を持ち出したので、四千人も死者を出した。戦は勝っては居るけれど、日清戦争のようなわけには行かぬということだけは確かなようだった。」
 こうした新聞情報に一喜一憂しているところへ、北見屯田にも動員がかかりました。
◇旭川第7師団へ入隊するのも大変だった。
 『北見市史』年表編によれば、8月4日「旭川第7師団に動員令下り、北見屯田に召集の電報到着。これにより北見の屯田兵は、8月11日に旭川に到着入隊。」とありますが、鉄道もなかった時代で、徒歩で北見峠を越え旭川へ行かねばならなかったわけですから、大変でした。『開拓夜話』では、5日に召集令状が届き、翌朝には家族に別れを告げて出発し、その日は相内の親戚の家に泊まり、次の日からは駅逓泊まりを繰り返して、11日午前9時に入隊したとあります。
 また、扇谷チエ子さんが「屯田兵の妻たち」からの聞き取りをまとめた『萩の根は深く』では、相内の屯田兵、茶木与三さんの例が次のように紹介されています。「八月五日午前七時頃、茶木与三も充員召集令状を受け取った。(中略)毎日つけていた家族別作業日誌の記録を留守中は弟彦三郎に頼み、次の日午前六時旭川へ向けて出発した。/いつも通る人もめったにいない鬱蒼と茂る草の中央道路は、時ならぬ兵士や見送りの家族が続いていた。第七師団の旭川まで百九十キロに及ぶはるかな道のりである。/駅逓間はほぼ四里から五里、この内相内から留辺蘂まで一番短く三里二十三丁(十四・五キロ)であるが、与三の『日露戦争従軍記』を見ると、一つの駅逓での休息時間はほぼ三時間。北見の国と石狩の国の国境である八号(白滝滝ノ上)、九号(中越)間には標高八四六メートルの北見峠があるが、激戦地を生き抜いた湧別屯田兵の一人が帰村途中痛ましい遭難死したこの峠は当時の旅人にとっては大変な難所であった。与三はこの峠さえも一つ手前の駅逓で三時間ほど休んだだけで、夜中の十二時にただちに出発している。家族とあわただしく別れた与三はこのようにほとんど仮眠を取りながら、百九十キロにも及ぶ道を夜通し歩き続けて入隊している。一日約五十キロの強行軍である。/野付牛を出発して四日後の九日、比布から汽車で、午後五時十五分雨の中やっと旭川師団道路の舎営に入った。」
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 別の資料を見ると、駅逓に宿泊できたのは運の良い人たちで、駅逓の定員を超過した応召者は野宿せざるを得なかったようです。
◇出征は家族しか見送らなかった。
 資料を読んで気がついたのは、日中戦争以降の出征見送りのような大げさな儀式はなく、応召者は淡々と家族と別れを告げ、戦地に旅立ったことです。
 これは野付牛だけではなく、湧別屯田でも同様でした。「当時は盛大な立ち振舞とか、大東亜戦争の時のように学校生徒、婦人や一般の見送りなんかありませんでした。家族と兵屋の門柱の所で『行って参ります』と別れました。腰に弁当をさげ着物の裾をはしおって帯にはさみ草履ばきで行く人、屯田解隊の時に払下げを受けた古軍服を着て行く人、さまざまでした。ちょうど隣の村まで、用たしに行くような姿でした。見送る私たちにしても、戸主のいないこれからの畑仕事や、まだ小さい子どもを育てる事や、家計のことを考えると、そんな事で頭がいっぱいになり、泣くどころではありませんでした。」(昭和43年発刊『上湧別町史』より)
 野付牛でも、戸主に出征されて途方にくれた留守家族が多数あったことは、大正15年発刊の『野付牛町誌』の次の記述からも容易に推測されます。
 「本兵村は現役満期解隊後未だ幾何も経ず稼穡(かしょく=農業の仕事の意−引用者)未だ進まざる時に方り一時に多数の主働者を失ひたる留守兵村は忽ち衣食の資に窮し帝国尚武会公共団体等に救助を請ふ者続出(三個中隊にて六十八戸の被救助者を出せり)せしも能く隣保扶助の義を以て相倚り相助け此難局に当面して一糸乱れず老幼婦女自ら馬を御して鋤犂を執て稼穡に勤しみ応召者をして後顧の念無からしむ。(後略)」
 こうした中で、留守家族は庶民の知恵で日常農作業で比較的労力の要らない商品作物=ハッカ栽培を始めることとなり、それが次第に野付牛の経済を潤すこととなりました。(続く)

 《中庭だより》 
☆2月17・18日と道立文書館の研修に参加してきました。公文書の保存について、札幌市、旭川市、釧路市、草加市の事例発表があり大変参考になりました。いずれの市でも、財政的に厳しくても市民全体の財産である公文書保存に努力されています。さて、当市では?
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