ヌプンケシ68号

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市史編さんニュース NO.68
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平成16年3月15日発行

fune◎日露戦争100年 (2)
◇従軍兵士の明暗
 北見屯田は正式には屯田歩兵第四大隊と称し、第一中隊(端野)、第二中隊(野付牛)、第三中隊(相内)、第四中隊(上湧別)、第五中隊(中湧別)で構成されていました。第一中隊から第三中隊までを野付牛屯田、あとを湧別屯田と言っています。これら屯田兵は前号で記したように、明治37年(1904)8月5日の充員令により、11日には旭川の第七師団に入営、再訓練されました。
 『北見市史』上巻によると、「北見屯田出身者は大部分が歩兵二十七連隊に属したが、二十八連隊所属も相当あった。二十七連隊の屯田兵達は大部分十月に入ってから凾館周辺に駐屯したが、一部は満州軍の充員としてこの年の十一月直接満州へ向かった。凾館要塞守備の方は、翌年の三十八年三月迄要塞守備に当たっていたが三月初旬原隊に戻った。七月十八日、歩兵第二十七連隊は後備歩兵第二十五連隊と改称されて、新しく編成された後備第二師団に編入された。」この後備第二師団に後備第十六師団が加わり、朝鮮北部に作戦展開する北韓軍が成立しました。

tizu 北見屯田の日露戦争投入は、満州軍所属と北韓軍所属の二つに分けられ、「両軍の参加期間は、北韓軍が遅く三十八年(一九〇五)の七月二十六日出征したのに帰還は十一月下旬であるのに対して 満州軍の早期参加は三七年(一九〇四)十一月に満州に上陸し帰還は三十九年三月中旬で、満州軍は約十七ケ月 北韓軍は四ケ月の従軍と大差が見られる。」このことは、従軍兵士の運命を大きく左右しました。
 扇谷チエ子著『萩の根は深く』では「野付牛兵村の屯田兵はこの北韓軍参加が圧倒的に多く満州軍の方が少ない。湧別屯田兵は反対に満州軍が多く二〇三高地争奪の激しさを語るように戦死者は三十二名で、戸主全員の約一割に当たっている。一方野付牛屯田兵は、戦地の茶木与三が受け取った慰問文には、明治三十八年一月までの間に清国戦にて五名、八月二十日現在では九名増えて計十四名、傷疾病のため帰郷したものが二十三名であったとある。
十四名の戦死者の内遺骨帰還葬儀した者は五名であった。」とあります。北韓軍と違い、満州軍
に編入された兵士たちは最初から、旅順攻撃など激戦に動員され、多数の死傷者をだしました。
◇日本軍の作戦
 その日露戦争における日本軍の基本作戦は、海軍がロシア極東艦隊を撃破して制海権を握り補給線を確保すると共に、陸軍は満州を主戦場にして、第1期の目標として遼陽占領、旅順攻略、第2期の目標として北進して奉天(現在の瀋陽)・ハルピンを占領、そして適当な時期に樺太を占領するというものでした。
 明治37年2月8日、韓国の仁川港に停泊していたロシア巡洋艦・砲艦へ攻撃開始、東郷平八郎長官指揮下、連合艦隊主力によるロシア極東艦隊根拠地=旅順港奇襲攻撃で本格化しました。それ以降、5月3日までに8次にわたる攻撃と、3度の閉塞作戦が実施されましたが、閉塞には失敗。極東艦隊も港内から出てこうようとせず、膠着状態になってしまいました。
 陸軍の方は韓国の占領を固めてから、黒木為楨(ためもと)大将率いる第一軍が4月30日夜半、義州から清国との国境線である鴨緑江を越え、九連城目指して進撃、5月1日、砲撃でロシア軍を圧倒して占領し、5月11日には鳳凰城に進出し、遼陽攻略の足場としました。
 続いて奥保鞏(やすかた)大将率いる第二軍が5月5日遼東半島の塩大澳(大連の北方)に敵前上陸、5月25日に遼東半島で最も幅の狭い金州に進出し、5月26日主陣地が置かれた南山の攻撃を開始しましたが、ここで機関銃によるロシア軍の巧みな抵抗にあい、4,400名近くの死傷者を出してしまいました。歴史家大江志乃夫氏によれば、日本軍がこの南山の戦いで初めて機関銃を知ったかのように俗説で言われていますが、当時、日本軍も相当数の機関銃を配備していたとのことで、つまりは機関銃の効果的な用法を理解せず、堅固な陣地へ再三突撃させた結果、このような犠牲を出したとしています。日本軍は旅順攻略でも同じ過ちを繰り返します。夕刻、支援に来た日本海軍の艦砲射撃により、ロシア陣地が崩壊、ロシア軍の退却により辛くも攻略に成功しました。これにより旅順をロシア軍主力から引き離し、孤立させることができました。
◇乃木将軍のこと
 5月31日、大本営は乃木希典(まれすけ)中将(のちに大将)を軍司令官にして旅順攻略の第三軍を編成しました。嘉永2年(1849)11月11日生まれの乃木は、二人の子息を戦死させた悲劇の将軍とか、大正元年(1912)9月13日の明治天皇大葬に際して妻の静子と共に殉死したことで一般に有名ですが、軍人としての乃木を軍事評論家柘植久慶氏は次のよう酷評しています。

nogi1「旅順攻防戦は極論するなら、日露二人の無能な軍司令官による戦いであった。この乃木希典とアナトリイ・ステッセルは、揃いも揃って自身の戦術哲学を持っておらず、単調な攻撃と工夫のない防戦に終始したのだ。/乃木は長州藩出身で、一番適性のない軍人の道を歩んだことが、一生の不幸の始まりだと言えるだろう。明治10(1877)年の西南戦争のとき、小倉の連隊心得−少佐として従軍、熊本への救援に向かった。けれど田原坂の戦闘で判断を誤り、連隊旗を薩摩軍に奪われるという大失態を演じた。/切腹を覚悟するが明治天皇に止められ、軍人を続ける決心を固めた。日清戦争では一日で旅順を突破してしまい、これがまた突撃で旅順を抜けるという、大きな錯覚を抱く原因となったと思われる。日清戦争後の一〇年近く、栃木県那須で農業に従事し、日進月歩の兵器や戦術から遠ざかっていたことも、大きなブランクとなった。」(中公新書ラクレ『あの頃日本は強かった/日露戦争100年』より)
 乃木は漢詩に堪能で、武士道については一家言あり、明治40年(1907)には学習院院長になっていますが、軍人としては時代遅れで有能とは言えなかったようです。その彼が明治天皇から気に入られ、将軍であり続けたことは、その配下の将兵には最悪なことだったと思います。
 そのうえ攻略すべき旅順は、築城要塞戦の権威であったロマン・コンドラチェンコ少将によって、それぞれが独立しながらも、近接拠点が相互支援できる防衛陣地が築かれ、これまでにない大量のコンクリートを使い、十二分に掩蔽された砲兵陣地を持ち、散兵線には機関銃を配備し、更にその上に銃剣で待ち構える歩兵が守備につく鉄壁の要塞になっていました。その要塞を、近代戦を理解できない乃木将軍が攻略することになったのですから、全くの悲劇です。(続く)

 《中庭だより》 
☆2月26日、専門委員にもご参加願って、拡大編集委員会を第三会議室で開催しました。

平成18年度刊行するスケジュールでいけば、平成16年度末にはおおよその原稿が完成していなくてはならないことを確認しました。当職も段々時間に追われてきました。
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