ヌプンケシ71号

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市史編さんニュース NO.71
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平成16年5月1日発行

◎日露戦争100年 (5)      hasi
◇与謝野晶子「君死にたもうことなかれ」
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与謝野昌子 昭和7年、夫鉄幹(左)の還暦記念。
 明治37年(1904)、『明星』9月号に与謝野晶子(1878〜1942)は「君死にたもうことなかれ」を発表しました。副題に「旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」とあるとおり、激戦が伝えられる旅順の第三軍に輜重兵として動員された弟=鳳籌三郎(ほう ちゅうざぶろう)の身を案じた有名な詩です。紙面の関係で見にくい形になりますが、全文紹介してみましょう。


  ああおとうとよ 君を泣く/君死にたもうことなかれ/末に生まれし君なれば/おやの
  なさけはまさりしも/親は刃をにぎらせて/人を殺せとおしえしや/人を殺して死ねよ
  とて/二十四までをそだてしや/
  堺の街のあきびとの/旧家をほこるあるじにて/親の名を継ぐ君なれば/君死にたもう
  ことなかれ/旅順の城はほろぶとも/ほろびずとても 何事ぞ/君は知らじな あきび
  との/家のおきてに無かりけり/
  君死にたもうことなかれ/すめらみことは 戦いに/おおみずからは出でまさね/かた
  みに人の血を流し/獣の道に死ねよとは/死ぬるを人のほまれとは/大みこころの深け
  れば/もとよりいかで思されん/
  ああおとうとよ 戦いに/君死にたもうことなかれ/すぎにし秋を父ぎみに/おくれた
  まえる母ぎみは/なげきの中に いたましく/わが子を召され 家を守り/安しと聞け
  る大御代も/母のしら髪はまさりぬる/
  暖簾のかげに伏して泣く/あえかにわかき新妻を/君わするるや 思えるや/十月も添
  わでわかれたる/少女ごころ思いみよ/この世ひとりの君ならで/ああまた誰をたのむ
  べき/君死にたもうことなかれ

 日本中が日露戦争で熱狂している時に、庶民が感じたままを詩に書いた与謝野晶子は強く非難されました。その急先鋒が大町桂月(1869〜1925)でした。大町は高知県の出身で、詩や紀行文で有名な明治、大正期の文学者で、全国を旅し、層雲峡の名づけ親であり、野付牛にも足を伸ばしています。その彼が、この詩を「国家観念を蔑視したる危険なる思想の発露なり」とし、晶子を「乱臣也、賊子也、国家の刑罰を加ふべき罪人なり」と決めつけました。それにもたじろがず、毅然としていた与謝野晶子の強さには感心します。公権力による弾圧がなかったのも、この頃は太平洋戦争時と違い、与謝野晶子に内心共感する庶民が多くいたからでしょう。
◇二〇三高地に目標変更
 11月26日の白襷隊による正面夜襲攻撃が大失敗であることが明白になって、翌27日、乃木軍司令官は攻撃目標を二〇三高地に変更しました。第一師団が最初に突撃しましたが、甚大な損害を出して退却。28、29日と山の姿が変わるほどの猛烈な砲撃と平行して、突撃のための坑道や壕を掘る作業も突貫工事で進められました。
 30日未明、第一師団に加えて、第七師団を主力とした二〇三高地への突撃が再開されました。その時の様子を『北海タイムス』にある足羽鶴蔵小隊長(当時)の体験談で見てみましょう。
 「日々の命令はただ『突撃』の一言だけで目的も示さなければ状況も教えない。いわば黙って死んでこいと言う命令にほかならないからだ。歩兵二十七連隊第三大隊の一小隊長として出征したかく言う私も基礎工事の一石として爾霊山(にれいさん=二〇三高地のこと−引用者)に打ち込まれた肉弾の一人である。」/「明治三十七年十一月二十九日夜九時——『二十七連隊前へ』の命令が下った。予備隊となって待機していた海鼠山の蔭から爾霊山の裾まで凡そ五、六百米。暗い坑道を伝って麓に抜け所定の位置に展開が終わった」。「麓に集結が終わってい良いよ第三大隊爾霊山攻撃の命令を受けた九中隊を先陣に続いて十、十一、十二の順で展開し各小隊毎に百米の散兵線を布いて三十分おきに頂上へ向って突撃を敢行するのである。」「兵士は黙ったまま一言も発しない。」「闇の中をすかしてみると寒い星空に爾霊山の稜線が黒くぼかされ山頂から八合目あたりにかけて火箭が縦横に交錯している。前の小隊はどの辺まで進んだのか皆目見当がつかず暗い闇の底に吸い込まれてしまったまま消息がない。」
 「い良いよ私の小隊だ。どっちへ進めば好いかはっきり目標が判らないがとにかく前の小隊の行った方へと一散に山を駆けあがった。」「敵か味方か。一面に散乱している死骸に幾度か足をさらわれた。中腹を過ぎた頃は全く屍の上を踏んでいたのである。幾月か風雨に叩かれた死体は腐乱してそこから発する死臭はいまだに忘れることができない。ヒューヒューと飛散する小銃弾。バンと炸裂する手榴弾。其間を縫って頂上真近に這いよった時は小隊の兵は戦死したのかほとんど影がない。僅かばかりの生存者がいつと
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旅順・203高地を攻撃する日本兵(「大激戦二百三高地占領」より)

もなく小隊長のもとに、小隊長は中隊長のもとに相寄って行ったが一人仆れ二人仆れ中隊長渥美大尉も悲壮 な戦死を遂げ私も第一弾を耳に左胸部には貫通銃創を受けていた。」部下の助けで、頂上近くの死角になっている三間四方くらいの窪地に滑り込んだが「どの隊とも知れぬ十四、五名の兵卒が腹這いながら蠢いていた。『将校はいないか、将校はいないか』と口々に呼んでいたようであった。『足羽少尉がここにいる』と答えても聞こえないのか『将校、将校』の連呼をやめなかった。時刻はかれこれ三時近くであったろうか。言わばここは断頭台だ。進むにも退くにも方法がない。進んで斬るか坐して死を待つか。然し夜が明ければ何とか方法がつくかも知れない。一種の希望を黎明にかけた時ガーンと一発。榴弾が炸裂してその瞬間私の意識は完全に戦場とお別れを告げた。」いつ山から降ろされたか記憶がないが、「幸いに私は助かって野戦病院に収容され」た。「中隊長四名は全部戦死し小隊長十二名中十一名は戦死或は負傷者の中に加わり大隊の大半は護国の神となって赤い山肌に屍を埋めていたのである。」
 戦闘状況も作戦も知らされず、ただ二〇三高地に向って突撃させられた兵士たちは犬死させられたようなものです。窪地で「将校、将校」と叫んでいたのも、絶体絶命の状況でいかに対処したら良いか、一般兵士には判断がつかなかったからでしょう。戦闘配置につく前に、兵士全体にどのように行動すべきか、明確な指示があれば犠牲は少し減ったかも知れません。
 「十一月二十六日から開始された総攻撃は、戦場を屍体の山で埋めつくし、戦闘継続もできないほどになり、十二月三日には敵味方共に一時休戦をして屍体の交換収容にあたらなければならなかったのである。」(大江志乃夫著『兵士たちの日露戦争』より)(続く)

 《中庭だより》 
☆4月22日、高知県人会事務局長の岡村功氏が来室され、昭和区にお住いの方が所有する前田駒治の肖像画の掛け軸を撮った写真を見せて頂きました。筆者も初見のもので細密に描かれているようでした。そのうち実物を見せて頂けるとのことで楽しみにしております。
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