ヌプンケシ72号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.72
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平成16年5月15日発行

◎日露戦争100年 (6)      kisya
◇満州軍児玉総参謀長の直接指揮
 乃木司令部の更迭もできないまま、無意味な犠牲者ばかりが増えていく旅順における一連の総攻撃失敗は、満州軍全体にとっても命運にかかわるものとなってきました。そこで苦肉の策として、満州軍は児玉源太郎総参謀長を旅順に派遣し、現地で直接指揮を執らせることとしました。

gentaro  その児玉源太郎(1852〜1906)は、山口県に嘉永5年閏2月25日生れで、明治20年陸軍大学校初代校長となり軍制を整備。陸軍次官、台湾総督、陸相、内相、文相を歴任し、明治37年の日露戦争では満州軍総参謀長をつとめ、大山巌満州軍総司令官を補佐しました。明治39年参謀総長。陸軍大将。日露戦争で燃え尽きたのか、明治39年7月23日、55歳で死去しました。
 11月30日、旅順にむかった列車の車中で、二〇三高地占拠の報がもたらされ、祝賀気分になったところが一転、直ぐに奪回されたとの連絡がはいり、児玉を激怒させる結果となりました。
  「十二月一日正午に第三軍司令部に到着した児玉は乃木軍司令官と密談し、乃木軍司令官は快く軍の指揮権を児玉に委任したという。乃木軍司令官自身が、もはや第三軍司令部の『指揮統率』が不可能なことを認識し、軍参謀長以下の作戦介入を防ぐために児玉総参謀長に指揮権を委ねたとも推測される。児玉総参謀長の状況判断と決心は迅速で明確であった。第一は、重砲火力を二〇三高地に集中して敵の防御火力を沈黙させると共に、二〇三高地に隣接する独立堡塁からの側防火力を制圧してわが歩兵突撃隊の損害をできるだけ僅少にとどめること、第二にいったん高地山頂を占領したならば敵の増援部隊による逆襲を阻止するために高地後方に弾幕をはり、敵増援兵力の二〇三高地接近を不可能たらしめることである。そのためには、重砲陣地の移動が必要であり、新しい陣地工事を要するが、具体的には一二センチ榴弾砲一五門・九センチ臼砲一二門(側防火力制圧用)の陣地変換が短期間に成功した。」
◇第七師団と二〇三高地占領
 「こうした準備ののち、攻撃再開を十二月五日と決定し、早朝よりかねての計画どおり猛攻撃を開始し、攻撃隊長村上正路大佐(歩兵第二八連隊長)は、第七師団の残存兵力の総力をあげて午前九時一五分、二〇三高地西南山頂にむけて突撃を開始した。すでに二九日から三〇日にかけての突撃で兵力を消耗した第七師団の歩兵戦闘員数は、将校・准士官一七六、下士五五六、歩兵兵卒五八八一、前回の攻撃で予備隊として控置されてほとんど損害をださなかった歩兵第二八連隊をのぞけば、他の歩兵三個連隊の残存兵力は、将校・准仕官九六、下士三五七、歩兵兵卒三七五二で、その兵力は歩兵旅団戦時定員の三分の二にもたっしなかった(『戦役統計12編』)。しかし、突撃開始後わずか一時間で突撃隊は二〇三高地西南山頂の占領確保に成功し、午後六時には東北山頂をふくむ二〇三高地全山の占領確保を確実にすることができた(公刊『日露戦史』6)。」
 これまで野付牛出身で激戦地・旅順攻撃に参加していた兵も多数いた筈なのに、12月5日に相内出身の服部清吉1名しか戦死が記録されていなかったのが疑問だったのですが、引用部分にあるとおり、野付牛出身の兵が属した歩兵第28連隊が旅順攻撃の最終段階まで、予備隊として温存されていた結果だったようです。ここにも戦場での兵士たちの運・不運を感じます。
 それにしても、長期にわたって苦戦していた二〇三高地攻略も指揮官が児玉にかわっただけで、一日で陥落したのを見ると、いかに乃木以下の司令部が無能で、死傷した兵士たちにとって最悪な存在であったかがわかります。児玉は目的の二〇三高地が陥落すると、あとは乃木に任せて、その日のうちにさっさと営口の満州軍総司令部に列車で帰ってしまいました。
 戦闘を継続しながら「五日午後二時、豊島攻城砲兵司令官は占領した二〇三高地西南山頂に観測所を開設し、ただちに旅順港内にひそむロシア艦隊の砲撃を開始した。観測所開設による間接
taiho射撃の効果は絶大で、早くも午後二時すぎには戦艦ポルタヴァの火薬庫に射弾が命中して火災を起こし、戦艦レトウィザン、ペレスウェートは六日に、戦艦ポペーダ、巡洋艦パルラダは七日に沈没し、残るは観測所の死角に隠れた戦艦セヴァストポリのみとなった。セヴァストポリはわが水雷艦隊の度かさなる襲撃により、一五日ごろ航行不能となったことが確認され、ここに連合艦隊は旅順艦隊の全滅を確認して封鎖作戦を解除し、各艦艇は逐次内地軍港に帰港して修理・整備をおこない、バルチック艦隊(第二太平洋艦隊)の来航に備える時間的余裕を得た(公刊『日露海戦史』2)。」(以上、大江志乃夫著『世界史としての日露戦争』より。)結果論ですが、最初から二〇三高地攻略を主目標にしていれば、あれほどの死傷者をださず、救われた命もあったことと思われます。
◇旅順要塞陥落
 ロシア兵の人望も厚かった旅順要塞の優秀な防御司令官、コンドラチェンコ中将は同年12月16日の夜、視察していた東鶏冠山北砲台で28センチ榴弾の直撃を受けて戦死しました。彼の戦死によって、旅順攻防の帰趨は決しました。彼の後任には戦意に欠けるフォーク中将がなると、ロシア軍の戦況は急速に悪化し、18日には東鶏冠山、28日に二龍山、30日には松樹山と、多くの日本兵士の血を吸い続け、犠牲を強いた堡塁が次々と日本軍の手に落ちました。
 明治38年(1905)1月1日午後3時35分、旅順市街を一望できる望台を日本軍が占領。その間にステッセル将軍は独断で軍使を第三軍に差遣し、降伏文書を渡し、午後8時に柳樹房の軍指令部がこれを受領しましたが、幕僚達は幾万の犠牲を思って、喜べる状態ではなかったようです。
 翌2日、水師営で両軍委員は開城規約文書に調印。同日午後4時30分をもって、戦闘行為の停止が命じられました。 第三軍として攻撃開始から 191日、日本軍総兵力13万人のうち、戦死者15,400人、戦傷者44,000人という大きな犠牲を支払った旅順要塞攻撃でした。
 その後、有名な絵や歌になっている乃木将軍とステッセル将軍が会見した、いわゆる「水師営の会見」があったのは1月5日のことでした。ステッセルは帰国後、軍法会議にかけられ死刑を宣告され、減刑保釈後、小学校の校長になったそうです。死刑を宣告されたのは、まだ最低一月は抗戦できるだけの食糧と兵力があったにもかかわらず、独断で降伏を決定したためでした。もし、あと一ヶ月旅順で戦闘が続けば、その後の日本軍の戦いは相当困難なものとなり、結果的に敗北したかもしれません。日本軍はステッセルに感謝すべきだったかもしれません。(続く)

 《中庭だより》 
☆日露戦争を簡単に紹介するつもりが、深みにはまってしまいました。司馬遼太郎も日本国家の方向を決定づけた戦争であると、多彩な人物を配した『坂の上の雲』を書いていますが、小泉正保も旅順陥落後の乃木軍参謀として、ちょっとだけ登場します。詳しくは次号で。
☆当ニュースに連載した伝蔵関係を、中間報告『野付牛における井上伝蔵』と題した冊子にまとめてみました。興味ある方には配付しますので、当事務室までおいでください。
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