ヌプンケシ73号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.73
title
平成16年6月1日発行

◎日露戦争100年 (7)      poppo
◇乃木第三軍の北進
 旅順陥落の勝利に酔う間もなく、奉天攻略作戦のために、明治38年(1905)1月12日、第三軍から第十一師団が引き抜かれ、これに後備第一師団を加えた鴨緑江軍(軍司令官川村景明大将)が編成されました。満州軍総司令部は、この軍をもってロシア軍の側面を脅かす考えでした。
 1月13日に旅順入城式が行われ、翌14日、満州軍総司令部から第三軍に「おそくとも二月中旬までには遼陽付近に集結を終わるべし」との命令が下り、15日には人事異動が発令され、乃木軍の旧参謀のほとんどが、旅順攻撃が難渋した責任を問われて転出しました。無能な参謀長の伊地知幸介はそれでも旅順要塞司令官となり、その後任に「北見屯田の生みの親」と言われる小泉正保少将が配置されました。しかし、小泉は就任まもなく「事故」で負傷し、松永正敏少将がその後任になりましたが、その松永も病に倒れるなど、どこまでも乃木軍はついていません。
◇『坂の上の雲』に描かれた小泉正保
 司馬遼太郎が日露戦争を描いた大河小説『坂の上の雲』では、小泉正保はどんな風に紹介され
ryoているか、次に引用して見てみましょう。
 「乃木軍の参謀長が、あたらしい人物にかわっている。総司令部でも悪評の高かった伊地知幸介が旅順要塞司令官という警備の閑職につき、新たに少将小泉正保が乃木の統帥下で作戦をたてることになった。/前任の伊地知とはちがい、我執がつよくなく、多少決断力のよわいところはあったが、ひとの意見をよくきいた。/着任したとき、乃木が、/『体は達者ですか』/と健康のことをきいたのは、前任の伊地知がずっと持病で悩まされていたことが乃木にとって気の重いことだったにちがいない。/『はい。いますこし風邪をひいておりますが』/と、小泉はいわでものことをいった。」
 1月24日、乃木司令部は汽車に乗り、遼陽を目指しました。途中、凍結による故障で立ち往生し、26日午前2時半頃には、列車は鞍山站南の海城河という河の鉄橋上に、どうしたわけか停車しました。そこで「事故」はおきたのです。
 「小泉は、汽車が鉄橋上にとまっているということを気づかなかったらしい。車内に便所がないため、用便は車外でするしか仕方なかった。/小泉はデッキに立ち、やがて飛びおりた。その下に橋ゲタがなかった。かれの体ははるか下まで墜落した。下は水の枯れた河底であった。」
 「戦争というのは国家がやる血みどろの賭博であるとするなら、将軍というのはその賭博を代行する血の勝負師であらねばならない。/当然、天性、勝負運の憑いた男でなければならない。賭博の技術は参謀がやるにしても、運を貸すのは将軍でなければならない。(後略)」
 「乃木はその点、あくまでもついていない男であった。かれにあたえられた最初の参謀長はたれもがあぜんとするほどその任にふさわしくない男であったし、つぎに総司令部がやった乃木軍司令部の大異動でやってきた小泉正保は、まだ一発の弾もうたず、敵の顔も見ず、集結地にすらついていない汽車のなかで墜落事故をおこしてしまった。」
 車内の一同は汽車が動き出してから、小泉の不在に気づき、汽車を止め、捜索をはじめ「やがて、小泉が河底で気をうしなっているのを発見した。胸を激しく打っていて、よほどの重症であるようだった。」
 「朝六時すぎ、列車は遼陽停車場についたが、乃木軍司令部が最初にやったしごとというのは、小泉参謀長を野戦病院にはこびこむことであった。」
◇日露戦争を闘った小泉正保
 司馬遼太郎は『坂の上の雲』の中で、大体の登場人物について経歴を詳細に紹介しているのに、小泉については資料がなかったためか、冷たいことに何も書かれていません。小泉は、運のない乃木を面白く引き立たせるチョイ役で登場させられたようなものです。「小泉正保は、まだ一発の弾もうたず、敵の顔も見ず」などと書かれていますが、何も知らずに一般読者がこのまま読むと、小泉は実戦経験もないまま参謀長になり、無様な事故を起こし、ただ戦列を離れたように思うのが普通でしょう。これでは、小泉正保も死んでも死にきれないことでしょう。
 実際の彼は旅団長として前線で指揮を執り、負傷までしているのです。それらのことを、前回市史編集委員長であった鈴木三郎氏が著した『小泉正保小伝』で見てみましょう。

koizumi 小泉正保は明治31年(1898)に野付牛を離れ、明治33年には新設の旭川第七師団の参謀長となり、明治36年久留米の第六師団第二十四旅団長となって赴任しました。翌年、日露戦争が勃発し、小泉が属する第六師団は北上する第二軍(軍司令官 奥 保鞏大将−引用者)に組みこまれ、6月2日頃、遼東半島に上陸しました。
 小泉少将が率いる第二十四旅団は、7月9日の「夜明け頃、敵の有力部隊が戦備をととのえて決戦の機を待ち構えていた雙頂山が前方に望まれる地点に達した。雙頂山は熊岳城と大石橋を結ぶ幹線道路を挟んで、東西に対峙していて、蓋平停車場の西十キロの地点にあった。この東西雙頂山に強力な部隊がある限り、爾後我軍の大部隊とそれに追尾する輸送部隊の北上はここで阻まれてしまう戦略上重要地点であった。第二軍にとって蓋平攻撃はこの地点に集中されることとなった。六師団は、右翼に第十一旅団、左翼に二十四旅団を一線に並べて前進を開始したが、小泉少将は全旅団を指揮して西雙頂山攻撃に当たった。その戦闘は少将にとって本当の実戦である。やはりそうした緒戦ということが心理的に左右したのであろう。彼の指揮は気負いたったものであったようで、旅団長自身相当最前線近く迄進出したため、敵弾のために大腿部銃傷の負傷をして前線より後送されることとなった。旅団の指揮は急きょ二十三連隊江口昌条大佐がとることとなり、激戦の末、午前七時十分西雙頂山を占領した。殆んどこれと同じ頃、右翼の第十一旅団も東雙頂山を占領したので、有力幹線の輸送はこれで確保され第二軍の北上を有利にした。第六師団長(大久保春野中将−引用者)は、右翼の第十一旅団に追撃を続行させたが、総指揮者を欠く左翼の二十四旅団は暫く占領地点にあって退却する敵を射撃するに止めた。小泉少将にとってこの負傷は最初の手痛い蹉跌であった。」
 「小泉少将が再び旅団の直接指揮をとったのは八月の初めである。負傷して以来二十日余であるから、おそらく完治はしていなかったろうし、動作も不十分な状態だったであろうが、激烈な死闘を繰返している前線を想えば完治を待つ悠長さは許されなかったであろう。」
 小泉が生真面目な性格であったことが、負傷して二十日あまりで戦線に復帰していることからもわかります。また、要領よく後方から指揮できない性質だったことも推測できます。その前線での激闘はまだ続きます。この続きは、また次号で…。(続く)

 《中庭だより》 
☆仕事の最中に、市民から電話で色々な問合せがあります。市史編纂の職員は何でも知っていると勘違いされているようで、「昭和○○年頃に地震があったはずだが、正確な年月日は?」というのもありました。手元に検索できる資料がないので、網走の気象台に問い合わせをしては、とアドバイスすれば、その電話番号を教えろと言われました。可能な限り早く調査し、お答えしていますが、事例によってはご自分で調べてほしいと思う時もあります。(ため息)
NO.74へ
よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館