ヌプンケシ76号

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市史編さんニュース NO.76
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平成16年7月15日発行

◎日露戦争100年 (10)                  画像

◇ミシチェンコ騎兵集団による後方攪乱

 冬期、沙河に対峙している間にもロシア軍の攻撃は続きました。一つはミシチェンコ中将が指揮する騎兵集団による日本軍の後方を攪乱する作戦でした。この作戦の狙いは、日本軍の背後にある鉄道など交通線を破壊して、日本軍の兵力集中をさまたげると共に、兵站部の倉庫、胸壁を焼き討ちして日本軍の力をそぐことにありました。そして、クロパトキンはロシア軍増援部隊の到着をまって攻勢にでようと考えていたのです。
 この騎兵集団は、全体で約7500人になったそうですが、その騎兵を支える物資もそうですが、問題は馬で冬は餌になる草はないために、大量の飼料を携行しなくてはならなかったことです。コサック騎兵そのため、奇襲をしなくてはならないのに、進攻速度が著しく落ちる結果になりました。しかも、広大なロシア各地の異民族コサックを寄せ集めた集団だったため、お互いの言葉が通じなかったそうで、偵察に出ても、報告されたことがさっぱりわからないこともあったようです。
  そうした問題をかかえたまま、明治38年(1905)1月8日、騎兵集団は行動を開始しました。そこに「ミシチェンコ騎兵集団がわが兵站線攻撃のため迂回前進中との情報(ただし兵力不明)を知った後備歩兵四一連隊三中隊と後備騎兵の一小隊は、一月一〇日、同じく牛荘に急行するため南下中の騎兵一連隊と合流するために太子河をわたって行進中にロシア軍騎兵の大部隊と遭遇して攻撃をうけて退却四散し(中隊長戦死)、その一部(約七〇)は牛荘に到着した。一月十一日、騎兵集団は牛荘を攻撃し、牛荘守備隊(後備歩兵三三連隊四中隊と後備騎兵の一小隊)を撃破し(守備隊長は負傷して捕虜となる)退却させ、牛荘を占領した。」(『世界史としての日露戦争』より)
 こうした動きに、日本軍は重要な後方基地である営口駅を守備するために、普段は銃をもたない物資輸送にあたる補助輸卒隊まで武装させ待ち構えていました。1月12日午後3時ごろ、騎兵集団は営口に押し寄せてきましたが、猛烈な銃火にあい、しかも増援部隊が午後4時過ぎ鉄道で駆けつけてきました。騎兵は奇襲してこそ本領が発揮できるのに、補強された陣地に突撃して、結局は所期の目的を果せず、408名の兵員と158頭の馬を失って退却しました。

◇黒溝台の戦い

 続いて、赴任したてのロシア第二軍司令官グリッペンベルグ大将がしかけた奇襲作戦がありました。彼は旅順が陥落した以上、乃木が率いる第三軍が必ず北上してくると判断し、日本軍がその戦列を整える前に攻撃した方が有利であると考えました。
 日本軍最左翼であった第二軍秋山支隊は李大人屯、韓山台、沈旦堡、黒溝台を拠点に約30キロの長さで薄い防御線を構築していましたが、そこへ1月25日未明、10万のロシア軍が攻撃してきたのです。騎兵第一旅団を指揮する秋山好古少将は、以前から自軍騎兵の偵察をもとに大攻勢の予測を満州軍総司令部に繰り返し報告していました。また、1月中旬、ヨーロッパにいた複数の武官からもロシア第二軍の攻勢が近いことを警告してきましたが、総司令部の作戦主任参謀松川敏胤少将は「当時厳寒積雪の最中であって大兵団の活動至難であるとの判断に基いて、これを局部的活躍であろうと思惟して楽観していた」(『機密日露戦史』)ため、沈旦堡、黒溝台では圧倒的なロシア軍を相手に、守備兵が絶望的な死守を強いられました。
 あわてた総司令部は、25日正午、これまでロシア軍との戦闘経験のない総軍予備の第八師団を出動させました。沈旦堡は増援部隊の到着まで何とか持ちこたえ、全滅をまぬがれましたが、黒溝台は立見尚文第八師団長の退却命令により放棄されました。日本軍のように猛進せず、いったん占領した陣地を強化し拠点にするロシア軍の戦法を知らない参謀長が、退却する守備隊に誘われてロシア軍が追撃してくるものと想定し、それを師団で包囲殲滅する作戦を立てたからです。当然、退却してもロシア軍はやってきません。ロシア軍は日本軍が構築した陣地を改造して守備を固め、沈旦堡を旋回軸として奥第二軍の左側背へ迂回する作戦を開始しました。この迂回包囲を阻止するために、今度は多くの血を流して黒溝台を奪回しなくてはなりませんでした。
地図   「翌26日、作戦失敗に慌てた第八師団は   黒溝台奪還を策して進撃したが、ロシア軍の反撃は猛烈をきわめ、反対に逆襲されるありさま。ついには三方面から包囲されるという窮地に陥った。秋山支隊の支援どころではない。自軍が全滅のおそれもある大危難に遭遇したのである。」
  こうした展開に、何故かロシア軍中央の  第三軍、左翼の第一軍の積極的な行動がなく、これが幸いして、日本軍は何とか失地を回復する機会を得ました。もし、グリッペンベルグの右翼軍に呼応してロシア軍主力が積極的な攻勢に出ていれば、日本軍は壊滅的な打撃をうけたことであろうと、日露戦争後まとめられた『機密日露戦史』において論評されているそうです。
 満州軍総司令部は26日夜、野津大将の第四軍から第五師団を急派すること決定。更に黒木大将の第一軍から第二師団を、第二軍の第三師団を戦線に逐次投入し、28日には第八師団長・立見尚文中将を臨時司令官とする臨時立見軍を編成し、早朝から本格的な反攻を開始しました。
 「最右翼の第3師団は韓山台を包囲する敵軍を強襲して撃退。その左に位置する第5師団も柳条口、李家窩棚を攻撃占領。第2師団は第8師団を包囲中の敵を蹴散らした。/敵包囲網から解放された第8師団は、汚名を雪辱すべく黒溝台へと殺到する。だが、ロシア軍の抵抗は頑強だった。緻密な銃砲火網が攻撃兵を釘付けにする。死屍が山をなし、雪原に血河が流れる惨烈な戦闘が延々とつづいた。」(以上、図共に学研・歴史群像シリーズ24『日露戦争』より引用)意外にも、ロシア軍が優勢であった28日午後8時、クロパトキンはロシア軍に退却命令を出しました。29日には、第八師団が第五師団の協力を得て夜襲をかけて黒溝台を奪い返し、この戦いは幕を閉じました。日本軍の戦死者は1,848名・負傷者7,249名・捕虜227名でした。これに対してロシア軍の騎兵・歩兵の戦死者は611名・負傷者8,989名・失踪1,105名とされています。
 ロシア軍の不可解で、不統一な行動は、クロパトキンとグリッペンベルグの出世をめぐる確執が原因と言われています。この後、クロパトキンの消極的な対応と意見の食い違いから、激怒したグリッペンベルグ大将は辞表を提出して、2月4日ロシア本国へ帰ってしまいました。こうしたロシア軍司令部内の不和も、実質は敗けていた日本軍を助ける結果になりました。(続く)

《中庭だより》
☆森谷健太郎氏の『北支・支那・大東亜戦争従軍記』の発行が『経済の伝書鳩』に出て以来、網走市民から当室に送料自己負担で同冊子の送付依頼が多数ありました。昭和20年7月15日の、死者がでた網走空襲のことも記されているからでしょう。今日はその7月15日です。
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