ヌプンケシ78号

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市史編さんニュース NO.78
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平成16年8月15日発行

◎日露戦争100年 (12)          
◇奉天会戦の死傷者数等
 大江志乃夫著『世界史としての日露戦争』で奉天会戦の死傷者数等を概観してみましょう。「奉天の会戦は、鴨緑江軍が行動を開始したのが2月22日、第一軍が行動を停止したのが3月17日でこの間24日間、攻城戦を除いて世界戦史に前例のない大会戦であった。この会戦に参与した日本軍の兵力は、歩兵240大隊、騎兵57中隊半、砲992門、機関銃254挺、工兵43中隊で、初期における戦闘総員約24万9800(『戦役統計』では24万6081)、戦死者1万6553、負傷者5万3475、捕虜404、計7万432(『戦役統計』記載の人的損害は各軍の戦闘日数の期間を短くとっているので損害の合計数は6万8511となっている)のである(公刊『日露戦史』8付録9)。
 他方、ロシア軍についていえば、『露軍之行動』第十一巻にあげられた数字(括弧内に公刊『日露戦史』8掲出の数字をしめす)を紹介すれば次のとおりである。2月21日現在の戦闘員兵力は、歩兵378大隊半(379大隊半)、騎兵181中隊(151中隊と一小隊)、砲兵156中隊・砲1208門(砲1219門)、攻城砲・臼砲等232門(記載なし)、機関銃76挺(56挺)、工兵の記載がなく(43中隊半)、総兵力約31万(約30万9600)となっている。その人的損害は、戦死者8899(8705)、負傷5万1002(5万1388)、失踪3万1590(2万9330)、合計9万1521(8万9423)である。日本軍が確保した捕虜の員数は2万1792である。
 会戦の日数は24日間、両軍の戦闘参与兵力は日本軍約25万、ロシア軍約31万で合計56万、両軍の人的損害は日本軍約7万、ロシア軍約9万で合計約16万、実に千古未曾有の大会戦であった。しかもこの大会戦の結果、勝利の女神はいずれの側にも軍配をあげなかった。強いていえばクロパトキン総司令官の作戦負けで」あった。
 (引用するにあたり、見やすいように、和数字を算用数字に筆者が直しました。なお、原典『露軍之行動』自体に間違いがあるのか、転記ミスによるのかは不明ですが、上記ロシア軍の人的損害合計91,521人について、筆者が戦死者・負傷・失踪の数を合計してみたところ91,491人となり、丁

大山巖元帥写真度30人の違いがあったことを付記しておきます。)
◇辛勝した日本軍
 明治38年(1905)の奉天会戦は、日本軍が約25万人を動員して7万人の死傷者等で損耗率は28.00%、ロシア軍約31万人に対して死傷者等9万人で損耗率29.03%という、大変な激戦でありました。日本軍は奉天を占領したとは言え、退路を断てず、ロシア軍主力を退却させ、当初の戦略目的であるロシア軍壊滅ができなかったことは失敗であり、しかもロシア軍を即座に追撃して、決戦するだけの兵力も武器弾薬も無かったわけで、やっと勝利したというのが実情でした。
 「奉天陥落後、大本営はそのまま北進を続け、ハルビン、ウラジオストクを占領して勝利を確実なものにし、可能ならば樺太をも掌中にしたいとしていた。しかし3月13日の夜半に届けられた大山満州軍総司令官の『政略戦略一致に関する意見具申書』には、ロシア軍を追撃するも持久戦に入るも、どちらにせよ今後の作戦は全て講和を踏まえた政策と一致したものであるべきである。付加すれば、追撃を選ぶなら兵員、武器、弾薬、物資の十分な補給がなければこれ以上作戦を遂行することは不可能であると、明記されていた。
 兵站総監部がハルビン占領を前提として計算した結果、目的の兵員、武器、弾薬、物資の補給を満たすのは翌明治三十九年七月になると出た。日本軍にさらに一年以上も戦争を続行する余裕はない。つまるところは北進を断念し、奉天の北方、開原まで進出してロシアとの講和に期待するという結論しか出てこなかった。」(以上、平塚柾緒著『図説・日露戦争』より)
 つまり、陸軍としては奉天会戦で軍事的に展開できる能力の限界にきており、これ以上戦争はできず、政治外交による講和に期待するしかなかったのです。何故なら、ロシアにはまだまだ戦争を継続できる余力があり、予備兵力も物資も十分にあったからです。
 余談ですが、この奉天会戦勝利を記念して、明治39年(1906)に明治政府は奉天を占領した3月10日を「陸軍記念日」とし、昭和20年(1945)まで祝日でした。また、明治38年3月16日、クロパトキン満州軍総司令官は職を辞し、第一軍司令官リネヴィッチ大将が後任につきました。
◇外交による講和の動き
 戦争を始めるのは簡単ですが、収束させるのが最も困難な仕事であることは「日中戦争」の経過を見ても理解されると思います。機を見て、優位のうちに戦争を収めるには、その国の情報収集能力、外交能力がどれだけあるかが、大きな鍵になります。日露戦争では最初からその外交が重視されていたのです。
 日露戦争当初から、明治政府は早期講和を考え、講和工作特使として、アメリカには貴族院議員の金子賢太郎男爵を、イギリスには伊藤博文の婿養子である末松謙澄男爵を派遣しました。金子はハーバード大学出身で、当時のセオドア・ルーズベルト大統領と同窓であり、個人的にも交際がありました。末松もケンブリッジ大学卒業で、イギリスに友人が多かったからでした。

ruzubert  そのセオドア・ルーズベルト大統領(写真・左)は、日露が開戦したとき中立宣言を出しましたが、日本には好意的でした。その米国の極東政策の基本は、自国のアジアにおける権益を守るために、日露両国の力の均衡と中国の門戸開放にありました。ルーズベルトは日露双方に戦争で消耗してもらい、程良いところで講和の主導権を握り、戦争を終わらせるのが得策と考えていたのです。つまり、日本とアメリカとは利害が一致していたのです。
 ルーズベルトは旅順陥落が講和の好機と考え、明治37年(1904)末から翌年の初めにかけて、ロシアに影響力のあるドイツ、日本と同盟しているイギリス両国を通じて講和に動きましたが、強気なロシアの拒否にあって成功しませんでした。
◇バルチック艦隊の遠征
 ロシアの強気の大きな要因の一つは、バルチック艦隊による日本遠征でした。
 明治37年10月15日にリバウ港を出航したバルチック艦隊=第二艦隊本隊は日英同盟の関係からスエズ運河を通過できず、友好国フランスの植民地に寄港して燃料の石炭と水を補給しながら、アフリカ大陸を一周する喜望峰経由の大航海となりました。奉天で激戦が続いていた時、バルチック艦隊本隊はアフリカのマダガスカル島に、後発の第三艦隊と合流するために、三か月近くも滞留していました。長期の航海でビタミンC不足による壊血病と疲労で、艦内兵士の士気は下がり、規律も乱れていました。何しろ、現在と違い燃料として大量の石炭確保なくしては、航海できないのですから、積載作業だけでも兵士にとっては大変だったようです。3月17日に錨をあげ、4月14日に仏印のカムラン湾沖に停泊、第三艦隊の到着を待つことにしました。ここで艦隊は奉天敗戦を知りました。5月9日、第三艦隊が到着して、50隻を超えるバルチック艦隊は5月14日、ウラジオストク目指して最後の航海にでました。(続く)

 《中庭だより》 
☆昭和35年に52歳で亡くなった東小一期生の、西村肇氏が大正時代の野付牛の街の様を描いた貴重な絵32枚が、大越様から北網圏北見文化センターに寄贈されました。筆者が図書館勤務以来ずっと探していた絵一式でしたので、感激しております。
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