ヌプンケシ79号

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市史編さんニュース NO.79
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平成16年9月1日発行

◎日露戦争100年 (13)          

◇新兵器「無線電信機」
 明治38年(1905)5月14日、仏印沖を出航し、姿を消したバルチック艦隊がどこを通過してウラジオストクへ向うかが、日本連合艦隊にとっては重大な問題でした。そのコースは、最短距離の対馬海峡を通って日本海を進むコース、日本列島にそって太平洋側から津軽海峡を通るコース、同じく太平洋側から宗谷海峡を通るコースの三つがありました。敵殲滅を図る日本海軍としては、一セットしかない艦隊を分散するわけにはいかなかったのです。
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ウラジオストクへのバルチック艦隊予想進航路
 その海戦を有利に展開するには、敵主力がどこにいるかを事前に知り、必要な時に必要な地点に速やかに兵力を集中することが肝要であることは言うまでもありません。この時に大きな役割を果たしたのが、当時の最新電子兵器「無線電信機」でした。明治政府軍は電信を有効に使い、西南戦争等の鎮圧に利用し、戦略上での情報収集の重要性を十分認識していました。マルコニーが明治28年(1895)無線電信に成功し、翌年には英国で特許を取得して実用化を進めましたが、日本で早くも明治30年11月には逓信省電気試験所技師松代松之助が無線の実地実験に成功しました。日本海軍では明治32年にその研究に着手し、明治33年(1900)2月には無線電信調査委員会が設置され、本格的な実用研究に入りました。同年10月10日には無線電信を明治政府が独占管理するために、逓信省より電信法を準用する旨の公布が出されたのも、その重要性を政府が認識していた表れでしょう。帝国大学卒の技術者木村駿吉は二高教授などを経て、明治33年に海軍技師となり、海軍艦船の無線電信機改良に尽力し、明治36年には当時としては高水準の交信可能な三六式無線機を開発しました。明治37年2月までに駆逐艦以下の小艦艇を除く連合艦隊の全軍艦計33隻に無線機が搭載され、明治38年5月時点には全駆逐艦に装備されていました。日本連合艦隊は無線電信による作戦行動が可能になったのです。
◇「敵、第二艦隊見ユ」
 バルチック艦隊がどのコースを取るか不明だった5月26日、ロシアの輸送船6隻が25日夕方上海の呉淞港に入港したとの情報が大本営にもたらされました。この輸送船団が本隊から分離されたということは、補給の面から見れば最短距離をとって太平洋回りはないと判断され、上海に近い位置から対馬海峡を通過すると予想されました。しかし、いまだバルチック艦隊の艦影は見えず、日本は73隻の艦艇を動員して、懸命の索敵行動を続けました。
 五島列島の白瀬島西方を哨戒していた仮装巡洋艦「信濃丸」は、5月27日午前2時ごろ船舶の灯火を発見。靄の中を午前4時にはバルチック艦隊の病院船「アリヨール」に接近。気がつけば敵艦隊の真ん中に入り込んでいたのです。信濃丸は敵艦隊の陣内から離脱すると共に、午前4時45分「敵艦隊ラシキ煤煙見ユ」と発信。午前4時50分には「敵、第二艦隊見ユ、地点二〇三」と打電しました。「その後、対馬海峡に張りめぐらせた日本艦隊の哨戒線に位置する各哨戒艦から、バ
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バルチック艦隊発見の第1報を入れた仮装巡洋鑑「信濃丸」

ルチック艦隊の編成、行動に関する情報があいついで無電で連合艦隊司令部に報告され、連合艦隊司令部は時々刻々と、いながらにして敵艦隊の行動を知ることができ、機をはかって出動し、圧倒的優位の地歩をしめて会敵し、日本海海戦の火ぶたをきった。無電が実戦に使われたのはこの海戦が世界最初であり、信濃丸に無電が装備されたのは海戦のわずか一か月ほど前の一九〇五年四月であったが、海戦はまず日本が電子情報戦で圧倒的優位を発揮した前哨戦からはじまった。」
 「当時、艦隊の行動を秘匿するのに、石炭の煤煙は大きな障害であった。従って、戦闘時には、良質で高カロリーの無煙炭を使用するのが常であった。しかし、こうした無煙炭は世界のどこにでも産出するわけでなく、イギリスのウェールズ地方で産しカーディフから輸出されるカーディフ炭が最高であるとされ、ついでアメリカ東部のアパラチア(ペンシルベニア)炭田産のものが良いとされていた。/日本艦隊はカーディフ炭を使用していたが、イギリス炭を自由に入手できないロシア艦隊は、石炭の供給のために雇い入れたドイツの給炭船にたよらざるをえず、必ずしも良質の石炭を積載することができなかった。このことが『煤煙見ゆ』と打電される暁の早期発見の原因となった。また戦闘開始後の艦の速度にも影響することになる。」(以上、大江志乃夫著『バルチック艦隊』より)
 日本海軍は戦艦だけでなく、燃料の石炭までイギリスから輸入して、戦争していたわけです。
◇連合艦隊出撃
 韓国の鎮海湾にいた連合艦隊旗艦・三笠に、信濃丸から午前4時50分に発信された敵艦隊発見の情報が、対馬に配置された第三艦隊旗艦・厳島から転電されて着電したのは、5月27日午前5時5分頃でした。(電波が弱く、届く範囲が狭いため、リレーをしなければならなかったのです。)東郷司令長官は、バルチック艦隊と隠岐島周辺で午後には接触できると判断し、直ちに連合艦隊の出撃を命じました。(テレビや映画でいけば、軍艦マーチがなる場面ですよね。)
 「日本艦隊の主力は、朝鮮半島の東南端に近い釜山と鎮海湾のあいだの加徳水道に位置していた。東郷司令長官は、『敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直に出動し之を撃滅せんとす、本日天気晴朗なれども浪高し』と大本営に打電して鎮海湾を出港し、旗艦三笠は六時三四分に艦隊主力と合同し、通常速力一五ノットを指令して第一戦隊の先頭にたった。ところが、海面にも濛気がたちこめ、展望は五〜六カイリほどであり、波浪が高く水雷艇隊の航海は困難と認められたので、艇隊を対馬東岸の三浦湾に退避させた。」(大江志乃夫著『バルチック艦隊』より)
 海軍名参謀と言われた秋山真之(さねゆき)が起案した電文とは全然イメージが違い、実際の天気は「天気晴朗」ではなくて、沖ノ島では「西風強 曇天 霧霞」、つまりクモリで海上に水蒸気がたちこめ、遠くまで見通すことはできなかったようです。海戦の様子は次号で…。(続く)

 《中庭だより》 
☆8月19日、井上伝蔵の郷里、吉田町教育委員会の篠田健一様より封書が届き、中間報告『野付牛における井上伝蔵』を読まれたとのことで、懇切な間違いの指摘や当職が調査できなかった伝蔵死後の遺族の動向等、貴重な資料情報を頂きました。先の引間春一様と言い、思わぬご協力に感激しております。これらを基に「補遺」を作成したいと思っております。
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