ヌプンケシ80号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.80
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平成16年9月15日発行

◎日露戦争100年 (14)            
kantai
◇海戦は難しい 100発100中は無理。         
 海上で戦うのは非常に困難なことは想像がつくと思います。
 まず広い海の上で、移動する敵艦隊を早期に捕捉すること。このために、帆船時代はマストから見張り、日露戦争の時は船による哨戒線が張られ、無線電信が利用されました。飛行機が発達すれば広い海域に偵察機が飛ばされ、第二次世界大戦ではレーダーが開発されました。
 次は砲撃です。海上を高速で移動する艦隊を砲撃しなくてはなりません。しかも自艦も高速運動しているのです。現在装備されている自動追跡装置付のミサイルと違い、砲弾は放物線を描いて落下します。そこで海戦では自艦と敵艦の距離と速度を正確に測り、敵艦の移動海域を予測し、そこに砲弾を落下させるわけで、当時は100発撃って5発命中すれば合格だったそうです。
 しかも、船は大きくて、車のように簡単にブレーキは効かず、方向転換するにも大きな弧を描きます。ですから、敵艦とすれ違いながら砲撃して、反転して追尾しようとしている間に、自艦より高速な敵艦であれば逃げられてしまいます。従って砲撃を持続しようとすれば、僚船が射撃の邪魔にならない縦一列の単縦陣で、敵艦隊と並行して航行することが肝要になります。
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黄海海戦におけるT字戦法
 
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●反航戦による海戦図
 
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●同航戦(並航戦)による海戦図
 

◇「T字戦法」はなかった
  明治38年(1905)5月27日午後1時39分、旗艦「三笠」は沖の島西方面でバルチック艦隊を発見しました。
 そのバルチック艦隊は、「三笠」の南西約13キロを北東に進んでいま した。途中で探索に付きまとう日本巡洋艦隊を追い払うために無用な運動をして陣形を乱し、単縦陣になれず、二列になったようなダンゴ状態で、戦場へ来てしまいました。しかもバルチック艦隊の艦船は、長い船旅で船底には藤壺などが付着し、石炭を満載して、なおさら船足は遅くなっていました。その上、旧式艦の遅いスピードに速度を合せていたのでした。
 東郷長官は敵の左翼列の先頭から撃破しようと第一・第二戦隊を北西微北に変針させ、速力を15ノットに上げました。そして午後1時55分、「三笠」のマストにZ旗がひるがえったのです。
 「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」
 乗員・参謀達はすれ違いざまの砲戦になると思っていたのが、東郷長官は艦首を左の極限まで急転させる「取舵一杯」を指示しました。バルチック艦隊が十分な射程距離でないうちに、並行できるように方向転換し、敵艦隊の頭を押さえようとしたのでした。
 ところで、勇ましい「戦記」ものを見ると、敵正面に横腹を見せる「T字戦法」を連合艦隊が日本海海戦で実戦されたかのように書かれていますが、最新研究ではそれはなかったとされています。
 防衛大学校教授・田中宏巳氏は、艦隊が「全速で行動中、射撃可能時間の短いT字戦法がどれだけ有効か疑わしい。明治三十七年八月十日の黄海海戦において、T字戦法を取ったわが艦隊が敵の先頭を砲撃している間に、後続艦はわが艦隊の後方を回って逃走してしまった。この戦例に大きなショックを受けたからこそ、秋山を中心とする東郷の参謀たちは、奇襲隊による連係水雷の直前敷設という奇策を生み出すのである。」しかし、予定していた敵艦隊の先頭を阻むべき奇襲隊=水雷艇隊は激浪で対馬に退避しており、「従って日本海海戦のときまでに、T字戦法は机上の空論になった。」とされています。(図共に学研・歴史群像シリーズ24『日露戦争』より)
◇バルチック艦隊の壊滅
 日本連合艦隊の第一・第二両戦隊15隻の回頭開始が午後2時5分。日本艦隊が正面で急速に旋回するのを見てロジェストヴェンスキー中将は2時8分、自軍艦隊に一斉砲撃を命じました。旗艦「三笠」に砲撃が集中しましたが、訓練不足で致命的なダメージは与えられませんでした。2時10分、距離6,400メートルで回頭を済ませると同時に「三笠」は、敵旗艦「スワロフ」に砲撃を開始、順次回頭を済ませた「敷島」「富士」「朝日」「春日」「日進」も砲撃に加わりました。ロシアの第一戦艦隊旗艦「スワロフ」と第二戦艦隊旗艦「オラスビア」に次々と着弾、甲板上の構造物はことごとく破壊され、火災が発生しました。東郷が「まず敵の将船を破る。しかるのち、わが全力をもって敵の分力を撃つ」という戦法で、旗艦を集中して狙ったのは、各艦に無線電信ではなく、旗信号と光信号で命令を伝えるバルチック艦隊の指揮系統を破壊するためでした。
 この砲撃戦で猛威をふるったのが、「下瀬火薬」と「伊集院信管」でした。
 「明治二十年、当時フランス駐在していた富岡定恭少佐は、フランスが実用化に成功したばかりの強力な新爆薬の試薬を入手し、密かに持ち帰った。海軍兵器製造所で分析したところ、原料はピクリン酸(トリニトロフェノール)と判明した。そこで同製造所の下瀬雅允技手が開発に取り組み、翌二十一年には試作に成功、さらに研究と実験を重ね、ついに爆薬の製造に成功した。そして明治二十六年に『下瀬火薬』として制式爆薬に採用され、明治三十六年に量産態勢が完成した。」(平塚柾緒著『図説・日露戦争』より)この「下瀬火薬」の威力は爆発すると高熱のガスを発生したことにあったらしく、命中すると必ずロシアの艦船に火災を生じさせたようです。加えて、海軍の伊集院五郎が考案した「伊集院信管」は敏感で、艦上に張られた細いワイヤーや海面にちょっと触れても砲弾を破裂させ、甲板にいるロシア水兵を爆風と破片で死傷させました。
 両艦隊の距離は4,600メートルに接近、激しい砲撃戦になりましたが、日本艦隊の砲弾は先の2隻以外にも命中、ロシア艦隊のほとんで火災が発生しました。ロジェストヴェンスキーは砲撃で頭部を負傷し、人事不省となって指揮ができず、バルチック艦隊は四分五裂して敗走を始め、旗艦「スワロフ」など7隻が沈没しました。戦艦等では喫水線付近の装甲が一番厚くなっているのですが、石炭を積みすぎたロシア艦船は喫水線が下がり、その上の装甲の弱い部分に砲弾をあび、しかも風浪で船体が激しく上下して、喫水線以下の装甲のない船腹にまで砲弾があたり、それらの穴から海水が艦内に流れ込み、沈没しました。ロシア水兵達の不運は重なりますね。
 5月27日夜、日本側は駆逐艦・水雷艇による夜襲を行い、旧式戦艦2隻、装甲巡洋艦2隻に大きな損害をあたえ、これらの艦は翌28日午後までに沈没しました。同28日午前10時30分、日本の主力艦隊に包囲されたネボガトフ少将率いるロシア残存艦隊4隻はついに降伏しました。
 筆者が手持ちの図書で整理してみると、日本海に来航したバルチック艦隊43隻のうち、撃沈は戦艦8隻・巡洋艦4隻・駆逐艦4隻・特務船3隻で、捕獲は戦艦2隻・駆逐艦1隻・海防艦3隻、自沈は巡洋艦2隻・駆逐艦2隻・特務船1隻、抑留は病院船2隻で、何とかウラジストクに入港したのは巡洋艦1隻・駆逐艦2隻・特務船2隻に過ぎず、あとは中立国の港に逃げ込み武装解除もしくは抑留された巡洋艦3隻・駆逐艦1隻・特務船2隻で、戦死・水死合計4,830名あまり、捕虜は7,000人に達して、バルチック艦隊は壊滅しました。これに対して、日本艦隊の損害は衝突事故等で沈没した水雷艇3隻と、戦死者110名だったそうです。(続く)

 《中庭だより》 
☆8月13日、佐藤毅氏を会長に映画『草の乱』上映実行委員会〈『草の乱』野付牛の会〉が発足し、9月10日に前売り券が配券になりました。大人千三百円、大学生〜中学生は千円。(小学生は当日五百円。)北見に縁があるので、多くの市民に観てほしいと思っております。
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