ヌプンケシ81号

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市史編さんニュース NO.81
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平成16年10月1日発行

◎日露戦争100年 (15)            
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◇戦勝ムードに沸く日本
 明治38年(1905)5月28日の日本海海戦での大勝利を知って、日本国内は戦勝ムードに沸きかえりました。
 しかし、ニュース78号で書いたとおり、奉天大会戦で日本陸軍はロシア軍に辛勝したとは言え、実際は兵員・砲弾薬共に底をつき、これ以降の大規模な戦闘継続は不可能で、決定的な勝敗は未決着の状態でした。それに対して、ロシア政府は5月30日、宮廷会議で戦争続行を決定していました。この時点でもロシア政府にはシベリア鉄道で追加兵員を満州に送りこむ余力がありました。ですから、日本海軍がバルチック艦隊を壊滅させたといっても、それは日本海の制海権を握り、満州への補給路の安全を確保したことに過ぎません。そこに輸送すべき物資や兵員がなくては何の意味もなかったのですが、国民は知りませんでした。
 日本国内の新聞は景気よく「講和条件」を勝手に打ち出し、国民を大いに煽りました。たとえば「賠償金30億円」。日露戦争での日本の戦費が20億余円ですから、30億円が手に入ればお釣りがくる計算になります。土地は「樺太、カムチャッカのみならず沿海州全部の割譲。」、つまり日本の海域に接したロシア領土全部を寄こせということです。何万人も死傷者をだしたのですから、これくらいの賠償は当然だと国民は思ったのです。
 7月7日に日本軍が樺太に上陸し、7月31日には樺太のロシア軍が降伏して、全島に軍政が施行され、国内の戦勝ムードはなおさら盛り上がりました。
◇ポーツマス講和会議
 日本海海戦の一方的な勝利を背景に、小村寿太郎外務大臣は5月31日、高平小五郎駐米公使にロシアとの講和交渉斡旋依頼の訓令を発しました。高平公使は6月1日にルーズベルト大統領にこの訓令をつたえました。6月2日、ルーズベルトは日本からの依頼を隠して、駐米ロシア大使カシニーを官邸に招き、日本との講和を正式に勧めましたが、主戦派のカシニーは次のように拒
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日露の講和会議が行われたポーツマスの海軍造船所本部第86号ビル。
否したそうです。「満州においてわが軍が劣勢にあるとはいえ、わがロシアはいまだ日本軍に寸土も失っていないのにロシアから進んで講和を求め、今日まで毀損されたロシアの名誉をますます失墜させるようなことはできない。大統領の忠告には深く感謝いたしますが、講和に関しては遺憾ながら採用することはできません。」
  しかし、その後ドイツ皇帝からの働きかけもあって、6月7日、ルーズベ ルトの勧告をうけいれたとの皇帝からの電報が入りました。これにより、アメリカの仲介の下、日露双方が全権委員を立てての直接講和会議開催が決定しました。さらにそれを7月31日の日本軍によるロシア領樺太の占領が後押しした形になりました。
 講和全権委員には日本政府が小村外務大臣と高平公使を選び、ロシア政府は前蔵相セルゲイ・ユリウィッチ・ウイッテと駐米大使に赴任したばかりのローマン・ロマノウィッチ・ローゼンを選びました。講和会議の場所も色々な案があったようですが、結局アメリカの、ボストンに近い 人口わず
ロシア皇帝ニコライ2世
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か1万人足らずの軍港で、気候が良好で警備しやすかったポーツマスが選ばれました。ここで講和会議は8月10日に開始され、その後17回に及ぶ会談を経て、9月5日に講和条約が調印されるのですが、その内容が妥結するまで決裂寸前までいくなど大変難航しました。
  すでに日本政府は4月21日に基本的な講和条件を閣議決定しており、6月30日に若干の修正を加えて小村全権に訓令を発していました。その「絶対的必要条件」の主眼は、日露開戦の要因となった「韓国を我が自由処分に委することを露国に約諾せしむること」であり、「比較的必要条件」には「最高額15億円」の賠償金等があげられていました。それに対して、ロシア側はニコライ皇帝から「いかなる場合も一銭の償金も一握の領土も譲渡するものであってはならぬ」と厳しく釘を刺されていましたから、最終的に交渉の歯車が噛み合わないのは当然でした。
◇ポーツマス講和条約の成立
 日本による「韓国の自由処分」などは認められたものの、償金と領土については平行状態のまま、8月26日の会談で28日を最終会談とすることとして日露双方の代表団は別れました。
 「講和会議が危機に瀕していることを知った日本政府は、八月二十八日の最終会議を何らかの理由をつけて二十四時間延期するよう訓令を発し、二十七日から二十八日にかけて閣議と御前会議を開いた。論議は沸騰した。このまま戦争を続行した場合、軍事的にはハルビンを占領できるかもしれない。しかしハルビンを占領してもロシアの死命を制することはできず、逆にロシアの増援軍に対抗するには数個師団の新設が必要であり、現在の日本にはその兵員も予算もない。この際、樺太全島の割譲と償金の二大要求を放棄しても、講和を成立させることが急務であるということになった。」(平塚柾緒著『図説・日露戦争』より)
 最後の講和会議は8月29日の午前10時から再開されました。最後に残された領土と償金問題は、日本が償金の要求を放棄し、ロシアが樺太の南半分を割譲することで妥協が成立し、9月1日をもって休戦議定書の調印が行われ、9月5日にポーツマス講和条約は正式調印されました。
 その条約内容を要約すると、ロシアは(1)日本の韓国を指導・保護・監理する権利を承認、(2)日本に長春から旅順に至る東清鉄道南満州支線と大連湾・旅順口をめぐる関東州の租借権を譲り、(3)樺太の南半分を割譲し、(4)沿海州沿岸の漁業権を与える、というものでした。
 国家財政の実態が知らされぬまま、講和内容が日本に伝えられると「国民の期待に反したその内容とくに無賠償講和である点がひろく国民の憤激を呼び、九月五日に東京日比谷公園でひらかれた講和反対国民大会は暴動に発展し、政府は翌六日、東京市および府下五郡に緊急勅令をもって戒厳令の一部を施行する件を公布し(行政戒厳)、軍隊を出動させて鎮圧にあたった。一八八四年の秩父事件以後、国内の民衆行動を制圧するために軍隊は出動したことはなく、ひたすら外征軍として整備・拡張に努めてきた日本の陸軍は日露戦争における戦勝軍の栄光と共に、ふたたび国内の民衆制圧の軍事力として姿を現した。これ以後、関東大震災における行政戒厳まで、労働争議の鎮圧などのための軍隊出動が日常化するに至る。」(大江志乃夫著『世界史としての日露戦争』より)/この暴動事件で9箇所の警察分署、290の派出所・交番が放火・破壊され、死者17人、検束者は2,000人におよびました。  (さて、当特集も次回で完結予定。やれやれ…)

 《中庭だより》 
☆文書課から9月下旬、保存年限を過ぎた廃棄文書を引継ぎました。仕事に追われて内容を精査できないのですが、拾い読みしただけでも貴重なデータが含まれた文書がありました。他人にとって価値のないゴミでも、私達には宝石の原石です。ご理解、協力を願います。
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