ヌプンケシ82号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.82
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平成16年10月15日発行

◎日露戦争100年 (16)    jyuu
◇韓国の保護国化
 日露戦争と講和会議が進行中、その陰で韓国の命運を握る国際的な動きがありました。
 日露戦争直後、日本政府は満州に軍隊を展開するためと称して、駐箚(ちゅうさつ=駐在と同意)軍を韓国に進出させ、事実上占領しましたが、日露戦争における日本側の最大の目的は、韓国を支配することにありました。それは、講和会議が決裂しそうになった時に、韓国さえ確保できれば、ロシア領土も賠償金も要求しないとした日本政府の決定にも表れていました。
 すでに「旅順陥落後の一九〇五年一月六日、韓国駐箚軍司令官長谷川好道は首都『京城および其の周辺に於ける治安に関する警察は韓国警察機関に代り当軍憲兵隊をして之を担任せしむ』との告示を発し、韓国首都圏内の治安警察権を完全に駐箚軍の手におさめるにいたった。屋外における集会および大衆運動の禁止、政治結社および屋内における政治集会の事前許可制とその他の結社・集会の事前届出制、集会への憲兵の臨監制とその命令への服従義務、結社・集会に関する文書の事前検閲制、これらの制度への違反者にたいする軍律をもって処分するなど、きびしい弾圧体制が施行された。首都圏内の治安警察権の接収にともなう軍律も一月六日に定められたが、刑は『左記の各項に該当する罪を犯したる者および従犯、教唆者未遂者、竝に予備、陰謀者は情状によりおよび事態の必要に従い死刑、監禁、追放、科料又は笞刑に処す』と規定したのみで(『朝鮮駐箚軍歴史』)、およそ罪刑法定主義から遠い刑罰法令であり、事実上の戒厳令施行であった。」(大江志乃夫著『世界史としての日露戦争』より)
 明治38年(1905)、日露講和交渉が始まると、早速7月29日には来日中の米国陸軍長官タフトと桂太郎首相との間で「桂・タフト協定」が秘密裡に結ばれました。これは、アメリカのフィリピン統治を日本が認めるかわり、アメリカは日本が韓国に宗主権を持つことを認めるというものでした。8月21日には第二次日英同盟が締結され、その三条において日本が「正当且つ必要と認むる指導、管理および保護の措置を韓国に於て執るの権利」が認められました。そして、9月5日に調印された日露講和条約でも同様の権利が承認されました。
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 こうして列強の承認を得た日本政府は10月27日、韓国保護権確立実行に関する閣議決定を行い、即日天皇の裁可を受け、11月9日には伊藤博文が韓国皇室慰問使という肩書で天皇の親書を持って京城に到着し、その後、強硬に日本の要求を皇帝に突きつけました。そして、11月17日、日本軍が首都京城を威圧している中で、韓国の外交権を取り上げ、日本の保護国とする第2次日韓協約が締結されました。明治42年(1909)、伊藤博文が安重根にハルビン駅で暗殺されたのも、こうした動きへの韓国民による抵抗の一つでありました。しかし、明治43年、韓国を日本の領土とする「日韓併合」が強行され、それを前後して韓国民衆による義兵運動がおこり、抗日運動は太平洋戦争敗戦まで続けられました。こうした民衆運動に対して、日本政府は武力による徹底した弾圧で臨みました。それらが、現在も日韓関係に大きな影を落としています。
◇後に残された者
 大江志乃夫著『日露戦争と日本軍隊』によれば、日本陸軍の動員兵力は1,088,996人で、出征兵力は945,394人で、死者は82,252人、入院傷病者は390,620人だったようです。
 野付牛村ではどうであったか、少々正確さに欠けますが、ニュース12号でも紹介した、大正初年に刊行されたらしい『野付牛村誌』の数字を参考に再掲して検討してみたいと思います。
 動員されたのは、明治37年8月に第1回目で577名、その後の動員で50名が召集され、合計627名になり、軍馬として馬53頭も徴発されたとあります。
 当職が調査した者を加えると、戦死者は、佐藤虎松、南部定治、山内忠松、石井丑吉、小田島藤太郎、渡邊市太郎、市原善右ヱ門、真野元次郎、大越文七、服部清吉、那須民次郎、山下増芳、山内忠松の13名、病死者は、松原徳太郎、寺本由太郎、林 幸作、真野茂松、諸橋友蔵、石井竹治郎、筑紫仁助、大野卯平太、柳田末吉の9名。死者は合計22名で動員数627名に対して3.51%になります。負傷者は42名、病兵が52名、合計94名で動員数に対して14.99%で、死者とあわせると18.5%が戦争の直接的な犠牲になっていたことがわかります。
 戦後、戦病死者の遺族、傷病者を抱えた家族は苦難の人生を強いられたと思われます。たとえば、和歌山県出身で、相内村三区に屯田兵として入植した山下増芳は明治38年3月7日転湾橋付近で戦死したのですが、跡継ぎがなく「父母即チ遺骨ヲ擁シテ寂シク郷里ニ帰ル。」と昭和2年12月発行の『相内村誌』に記録されている、この老夫婦の悲嘆は想像もできません。
◇北海道移民の増加

北海道農業目的移住者

(「北海道移民政策史」)

明治34 10,523
35 9,900
36 10,922
37 18,452
38 26,406
39 55,180
40 83,063
41 44,285
42 16,946
43  16,644
44 27,155
45 27,858

 戦争が農村の働き手を兵士として奪い、耕作に必要な牛馬も徴発したことにより、農業生産は低下し、戦費を搾り出す増税もあって帰郷した出征兵士は戦後の生活に追われました。本州「なかでも東北三県は、天明・天保以来の大災害であった明治三八年(一九〇五)の大凶荒にひきつづき、三九年一月以来の降雪が六〇年来の未曾有の量といわれるなかで、窮乏の極にあった。」といわれます。その結果、「東北農民は、かかる絶望的な窮乏からの脱出をはかるべく、北海道へ明日の生活を求めんとした。ちなみに宮城県からの北海道移住者は、明治三七年が一九〇五人、三八年が五二二〇人、三九年が一万三三一二人、四〇年が一万六二〇二人と急増したのだった。それは、『生計貧困ニシテ、其日ノ糊口ニ窮スル状態ニ付、今般北海道ヘ移住』『一家離散シ、独立生計ヲ立テ得ベキモノアラザレバ、奉公ヲ致シ居ルモ、物価騰貴ノ今日、収入無之故』の選択にほかならない。まさに北海道は、内国植民地として、日本農村の窮乏と疲弊をのみこむ場であり、これら農民の血と涙と汗でもって開拓されたのである。」(大濱徹也著『庶民の見た日清・日露戦争』より)

◇日露戦争の「勝利」が招いた「将来」
 河出書房新社『図説・日露戦争』で著者平塚柾緒氏は、次のように述べられています。
 「ポーツマスの講和で日本の戦勝国という立場は堅持された。だが、大国ロシアが敗戦国という屈辱的なレッテルを背負いながらも講和を受諾したのは、日本の軍事力にではなく、戦艦『ポチョムキン』に代表される国内の革命勢力に対する恐怖心からであった。すなわち日本にとって日露戦争の『勝利』は、ロシア革命の落とし子だったということである。そしていえることは、この『勝利』は将来の日本にとってまさに悪魔の勝利になったということである。以後、奢りたかぶった日本は韓国併合という国家の大罪を犯し、ひたすら軍事力を強化して『満州事変』を起こし、『支那事変』から太平洋戦争に突っ走って国民を未曾有の破滅においやった。その国民破滅の源は、この日露戦争の『勝利の美酒』に酔いすぎたことではなかったろうか。」
 《中庭だより》 
☆少々、尻切れトンボですが、日露戦争の連載を今号で完結とします。短期連載の予定が知らないことばかりで長期になりました。なお今後も史料類は収集予定でおります。
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