ヌプンケシ83号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.83
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平成16年11月1日発行

◎井上伝蔵の三男、郁雄のスケッチ・ブック
 本年6月21日、秩父事件研究家・引間春一様のご好意で、井上伝蔵の遺族で所有者の佐藤知行様から許可を得て、明治41年(1908)3月28日生れの伝蔵の三男、郁雄の48ページに及ぶスケッチ・ブックのカラーコピーが市史編さん事務室に提供されたことは、当ニュース第75号の《中庭だより》でお知らせしたとおりです。今回はその貴重な内容についてレポートします。
◇スケッチは上京する前の、大正10年に描かれた
 筆者は、このカラーコピーが来る前は、昭和52年発行『秩父困民党に生きた人びと』で、盛善吉氏が伝蔵の三女、佐藤せつさんからの聞書きした「逃亡の父と共に」の説明では「明治学院中等部時代のスケッチブックより」とあること、またそのスケッチのなかに稲荷神社の社殿が描かれてあることから、菅原政雄氏が『ある興行師伝』で昭和4年に同社殿ができたように書いてあることを論拠にして、昭和4年頃に描かれたものと推測しておりました。

ie ところが、このスケッチ・ブックの5ページ目には、ご覧のとおり、郁雄が住む残雪も深い、近くの家の様子が描かれ、「大正10年(1921)3月23日」と年月日がはっきりと記録されていたのです。このことにより、このスケッチ・ブックは郁雄が野付牛尋常高等小学校(現・西小学校)の高等科二年に進級する直前の3月から描かれはじめたことが明らかになりました。
 ということは、郁雄が大正11年3月に小学校高等科を卒業後、伝蔵の甥で、東京で新聞記者をしていた井上宅治のところへ引き取られることが確定して、その前に野付牛の思い出になる風景を記録するために、このスケッチを始めたと理解されます。そのためか、自分の家の周りの風景をしきりに描いています。
◇当時は北5条西3丁目近辺に居住?
 ピアソン邸を山下通り側から見上げたものや、加藤木工場、自宅、稲荷神社など、その一連のスケッチ風景で住所を推理すると、大正10年には、郁雄の一家は加藤木工場のあった北5条西3丁目近辺に住んでいたと考えられます。
 紙面の関係でコピー掲載は割愛しますが、14ページに「五月一日 晴 野町全体を写生して来ると言う意気込で 朝飯を食すとすぐスケッチしに出かけた……  紅葉しるす」とあり、次ページには現市役所の敷地内にあった開拓記念碑がスケッチされています。それから父親伝蔵の葬儀場になった聖徳寺、当時建設中の神田館、いとう呉服店、西小創立当初の旧校舎、そして現在の屯田公園にあった野付牛尋常高等小学校(西小)の周辺風景が順に描かれています。
 44ページには下が欠損した井上伝蔵の遺影写真、次ページにはこれも遺影写真と思われる「末雄兄 明治四十一年二月十一日紀元節死ス」とメモのある目を瞑った幼児の絵があります。当時はコピーの技術もなかったわけで、こうした写真を形見代わりにスケッチしたようです。
 47ページには「雪子嬢 御上京記念ニ 大正拾年5月8日 ポプラ植付ク」とメモが書かれてありますが、これは郁雄より先に東京の井上宅治に引き取られた、二女「ユキ」のことと思われますし、ピアソン通りはポプラ並木で有名でしたから、そこにポプラを植えたのでしょう。
 郁雄にとって、生れは石狩でも小学校を過ごした野付牛が心の故郷であったのでしょう。その思い出の糧として、これらスケッチは郁雄には大事だった。その心を理解していたからこそ、昭和8年(1933)に郁雄が死後も、遺族はスケッチ・ブックを大切にされてきたのだと思います。
 なお、過日、吉田町教育委員会篠田健一様から頂いた資料によると、伝蔵の三女、セツさんの長女ゆう子さんは、大正13年(1924)9月19日、釧路生れだそうですから、大正12年前後には伝蔵の遺族全員が野付牛(現・北見)を去った可能性があります。
◇稲荷神社の位置
 稲荷神社のスケッチがきっかけになって、稲荷神社の位置の変遷も段々わかってきました。
 野付牛の顔役、鈴木幸吉が書きのこした『事蹟録』のよると「明治四十四年二月 山田岩吉氏ハ稲荷明神ノ社殿ヲ建立シテ祭典ヲ挙行シタキニ付 拙者ニ其ノ発起者トナリテ援助ヲ頼ムトノ相談アリタルヲ以テ 其レニ同意シ小宮殿ヲ建テマシタ。其ノ后 梅谷豊三郎氏ハ自宅付近ノ料理店同業者ト図リ 土地ヲ寄附シテ其処ニ移シ 付近ノ町名ノ俗称モ稲荷小路トシテ年々盛ンナル行フコトニナリマシタ。」とあります。
 つまり、明治44年2月に山田岩吉の発案で稲荷明神を鈴木幸吉らが建てたこと。この場所については、北見新聞・特集『街』の昭和39年7月1日付けの記事に「お稲荷さんが野付牛に開堂したのは明治四十四年、いまの矢田食堂の付近にほこらを設けた。」とありますから、今の矢田果物店、北2条西3丁目の角あたりに在ったのでしょう。
 それが「大正三年の野付牛大火のとき、この通りにあったお稲荷さんと、その信者の木材商の家が延焼の火勢で危うくなった。その人は一心に稲荷大明神の加護を唱え、猛火沈静を祈った。もはや類焼必至となったときにわかに風が変り、火勢反転して奇跡的に焼失を免れた。このことがあってから付近一帯の人たちの間にお稲荷さんを街の人の力でお守りしょうという声が高まり有志の一人料亭『梅の家』の主人梅谷豊三郎さんが代表格で稲荷神社守護を呼びかけ、料飲街の人たちも家業の守り神として朝な夕なの参詣を日課とするようになった。」

inari 同じ北見新聞・特集『街』の6月25日付けの記事には、「四条通り」の説明の中に「大正十年ころまではこの付近は家もまばらで、三条通りの『花街』にくらべもの淋しい通りだったらしい。そのころお稲荷さんはいまの豊栄堂あたりに小さいお宮が鎮座していたもの、強風のため損傷したのを機に現在の地点(東宝ビル前のロータリー広場のところ−引用者)に移した。」とあります。
 これらを整理すると明治44年(1911)北2条西3丁目に稲荷大明神が祀られ、大正3年の野付牛大火後、梅谷豊三郎等が土地を寄付して北4条西2丁目、東宝ビル横あたりに移転。それも大正10年頃にロータリー広場の所へ移されたことになります。それが珍しくて郁雄はスケッチに納めたのかもしれません。昭和4年というのは、社殿が新築された年と考えられます。
 ロータリーを設けるために、現在の幸町5丁目に移転されたのは昭和41年(1966)です。

 《中庭だより》 
☆今回は井上郁雄のスケッチについて紹介しましたが、先日市に寄贈された「野付牛の思い出」32枚を描いた西村肇氏とは西小で同学年だったようです。偶然の一致に驚いています。
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