ヌプンケシ84号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.84
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平成16年11月15日発行

◎『釧路新聞』を閲覧して(1)
 10月23日〜24日、個人的な用事で釧路市へ行く機会がありましたので、釧路市立図書館へ出かけて、4階郷土資料室にある『釧路新聞』のマイクロ・フィルムを閲覧してきました。
 市立北見図書館には戦前の新聞類はほとんど無く、どうしても古い事柄を調査しようとすれば、野付牛に支局を置いていた『釧路新聞』や『小樽新聞』に当たるしかありません。

◇『釧路新聞』とは?
 その『釧路新聞』とはどんな新聞であったか、平成5年7月に発行された『北海道新聞五十年史』で概略を見てみましょう。
 「釧路で初めての新聞は明治三十三年十月創刊の『釧路新聞』で、荻野丈吉を中心に地元政財界人の出資で発足した。凾館、札幌、根室から比べると、かなり遅い方だが、釧路としては最初の町制施行の年であり、新聞誕生の機運はちょうど熟したところだった。同紙発刊は初代町長白石義郎支援の狙いもあったといわれ、筆禍事件を起し三ヵ月後に廃刊になってしまった。
kusiro 「釧路新聞」復刊第一号(明治三十五年七月八日付)

 そこで三十五年七月、白石は独力で小型週刊の『釧路新聞』を復刊、三十七年から日刊にした。町長現職のまま新聞社の社長となり、自ら筆もとったというところに、開拓の息吹が荒々しい当時の釧路の世相が伝わってくる。白石は町長退職後、『小樽日報』の社長を兼ね、その口ききで石川啄木が四十一年一月から四月にかけて約二か月半、釧路新聞に在職、評論や文化欄に筆を振るって話題となった。その後釧路地方では有力な競争相手もなく、統合まで四十年間道東の代表紙としての座を守り通した。」
 『釧路新聞』は石川啄木がいた新聞社として、啄木ファンなら知らない人はいない筈です。そのため、戦前から図書館が保管していた『釧路新聞』で、啄木が書いた記事はことごとく切り抜かれて空白になっていると、二か月前の北海道新聞でみた記憶があります。ファンとか、自称「研究家」の中には、こうした史料=「国民の財産」を勝手に「私物化」する輩もいるわけで、その行為が後世の研究にどれほど障害となるか、想像しないようです。
 現在、釧路市立図書館にある『釧路新聞』は、明治37年(1904)7月から、戦中に国家統制のため道内各紙が『北海道新聞』に統合される昭和17年(1942)11月までで、その間、明治41年、42年、大正2年の3年間分が欠号になっているとのことでした。
◇一年間分閲覧するのに4時間
 北見(当時・野付牛)関係を探すのに、明治43年(1910)から見ることとしました。というのは、秩父事件の井上伝蔵と親しかった釧路新聞記者・岡部清太郎の略歴では記者に採用されたのが、同年だからです。そして明治44年に野付牛に配置されたことになっています。そうした動きが見えるか、確認してみようと思いました。しかし、実際、マイクロ・フィルム・リーダーを操作してみると、一年間分見るのにトイレにも行かず、休憩なしでやっても、4時間かかりました。だから、筆者の日程からも実際に二年間分しか見ることができなかったのです。 
 筆者がマイクロ・フィルムで閲覧した釧路新聞は日刊、タブロイド版4ページ立てで、おおよその紙面構成は一面が国内外の政治記事と論説・主張、二面は釧路管内などの政治・経済欄、三面は釧路を中心とした興味本位のゴシップ記事やうわさ話のいわゆる三面記事で、四面は新聞小説など娯楽欄になっていました。これが、明治・大正の典型的な新聞紙面であったようです。
◇釧路と野付牛の関係
 明治43年一年間を閲覧して、見落としもあると思いますが、網走管内関係の記事は5件しかありませんでした。そのうち野付牛関係は6月30日付け記事で、同月18日に起きた鉄道建設でタコをリンチして恨みをかった土工夫が住宅での「銃撃殺人未遂事件」のみでした。
 他の記事を見て気づいたのは、当時は何と言っても北見国の中心は網走で、釧路新聞の記者も常駐していたらしいことです。その記事も「北見國の造材界」と題して、大手会社が「無尽蔵」と思われた北見国のマッチ軸木用木を乱伐し、枯渇しはじめていることを警告はしているものの、網走までの鉄道敷設で今まで手付かずだった内陸部の森林に期待を寄せるという、懲りない内容にもなっています。この記事を見ると、初期北海道開発は木材資源を根こそぎ収奪するという、今、東南アジアでやられているのと同じであったと思われました。
 しかし、明治43年10月、網走線建設列車が野付牛に着き、汽車で往来できるようになるに連れて、これを好機として釧路の財界人たちが次々とその沿線の村々を視察して歩き、釧路の商圏に組み入れていこうとしていたことが、新聞に掲載された視察記事からも理解されました。
 たとえば明治44年4月19日付、釧路米穀商・福井邦雄氏『北見線視察談』では「▲野付牛と釧路港 野付牛と港湾の最も接近しおる網走湾なり しかれども同港は半歳氷塊のため封鎖せられてその用をなさずのみならず その区間の道路は泥濘にて物資の運搬意のごとくならざるため あたかも無きがごとし ここにおいて釧路港は野付牛とは距離において網走港より遥かに遠しといえども 事実はかえって最も接近しおるなり しかも目下野付牛商品中いずこの商品が最も多きやを検するに第一に小樽、旭川を推し 次に釧路を上げざるべからざる景況なり」と、報告しています。

kinkyusya そうした動きの中で、釧路新聞は明治44年3月28日、左に載せた「緊急社告」で、「記者五名募集」と「地方通信員募集」を行いました。
 つまり、取材体制を強化すると共に、釧路財界のニーズにあわせて、地方通信員を増強し、北見国の詳しいニュースを提供しようとしたと考えられます。そこに岡部清太郎が登場するわけです。
 明治44年一年間分の釧路新聞で、筆者が見た限り、広告記事も入れて43件の野付牛関係記事がありましたが、3月以前は2件の記事しか見えないのに、4月以降は野付牛関連の記事が現地時間より4、5日遅れで頻繁に載るようになります。ここからも、岡部が4月段階から野付牛に常駐するようになったことが推定されます。またその考えを補強するように、野付牛の顔役であった鈴木幸吉が自分の業績を書き残した『事蹟録』の明治44年4月の事項で、「仁頃十四号線ヨリ当市街ヘ通ズル刈分道路設置ノ件」で実地調査に出かけたメンバーの中に「釧路新聞記者岡部清太郎」の名前が見えます。次回は掲載記事をレポートします。(続く)

 《中庭だより》 
☆11月6日、北見芸術文化ホールで映画『草の乱』が4回上映され、観客数は主催者である『野付牛の会』の予想を超え、当初用意した1,200人分のニュース・資料も不足する有様で、総数で1,420名となりました。その前日には北海道新聞に当職の調査を基にした「井上伝蔵」に関する記事が掲載され、多くの市民の関心を呼んだことも当日券の多さから推察されました。帯広が観客700人余、釧路で1,000人余だったそうですから、北見は大成功でしょう。
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