ヌプンケシ86号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.86
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平成16年12月15日発行

◎『釧路新聞』を閲覧して(3)
◇流浪する人々                    bennkeigo
 明治43年(1910)10月、建築列車が来るようになると、野付牛村には本州で食い詰めて、一か八か、わずかな路銀を握って開拓にやってくる人々もおりました。
 その一例が、明治44年(1911)4月27日付の3面「●野付牛の慈善家(悲惨なる窮民を救う)」という当時の野付牛の顔役・鈴木幸吉を取り上げた記事の中にあります。
 「(前略)そもこの鈴木氏の温情の手に救われたる薄命者というは 元籍岩手県和賀郡黒澤尻町字分町432 平民藤谷勇次郎(66)という老人にて 故国に在りし時 一度他に養子となり 一男一女をもうけたるも ある事情のため 今より13年前 養家を離縁し独立する事となり 現在の妻お何(35)をめとり雑貨商を営み 家内睦まじき中に長女はつ(15) 萬次郎(5)をもうけ 商売のかたわら田地の小作等とて不自由もなく年月を送りしが
 栄枯盛衰は世のならい その後続ける不作不景気の重なりて 今は負債もつみかさなり その日の生活に苦しむの有様となれども かくては果てずと夫婦共かせぎの折もあしく 萬之助(当歳)の生れて い良いよ苦境のますばかり またその上に妻は産褥にふし 哀れこのままに過ごさんには 一家は餓死の悲惨を見ることなれば 勇次郎はとっさの思案を定め 妻の全快を待って ようやく多くもあらぬ家財を売払い 負債をつくろい 親族知己の餞別わずかに5円をしばしは生命の綱と 泣く泣くも住み馴れし故郷をあとに 行くみちは更に白浪越えて北見の國紋別の知人頼りに渡道せしは去る一月下旬なり されど長の旅路に路用のつき わずかに同情の袖をすがり陸別に到着し 同所よりはようやく移民の取扱いに列車の便乗を得て打ち喜び 一日も早く目的地に達せんと
tizu1思いしに 又も不幸は夫婦をして 狂乱せしむべき惨事を発生せしめたり そは当歳の萬之助が栄養の不良と凛冽なる寒気のためについに絶命せるの一事なり 時は建設列車の車上 いかんともせん術なく 悲嘆のうちに野付牛駅に着せしが 降り積む雪のその中に宿を求むる貯えなく 凍死せんばかり 路頭に迷うこと哀れなり おりから通りかかりたる 鈴木氏はこの悲惨なる光景を目撃して事情を聞くや 同情の念は立ちどころに勃発し 兎も角も梅谷某によって劇場を借り受け親子を収容し 自ら四隣に馳せて米味噌薪炭寝具に至るまで一切を供給し 一面萬之助の死体に対し形ばかりなりともと 木下竹次郎なる大工にはかり木代を支弁し棺をこしらえ なお大谷派本願寺住職櫻田正見師に特志読経を請うことにし手続き万端埋葬を終われり 当時仏前に鈴木氏の供えられし饅頭を見たる長男萬次郎の請うてやまざるに 再び買い求めて与うるなど到底普通人の及ばざる行き届ける親切には 親子夢見る心地 地獄で仏とはこの事ならんと ただ随喜の涙にむせび 万死に一生を得たる感謝さえ(以下不明)鈴木氏自ら役場前に屋台を作り資本金として金20円を支出し 菓子の小商いを開かしめ 更にはわざわざ網走支庁に出願してムカ原野の空き地七町歩を藤谷の名義で貸付を請願し おって認可となるべしと この可憐なる藤谷一家に同情をそそぎたる鈴木氏の心情こそ実に敬すべきの至りなり」
 読みやすいように、筆者が少し文を直しましたが、読点も句点もない美文調の記事で、現代の新聞記事とはだいぶ様子が違います。「可憐」という言葉も現代では「かわいらしい」くらいの語感ですが、当時は「あわれむべき」の意味で使われていました。
 ニュース82号にも書いたとおり、日露戦争後、東北地方は凶作と不景気で大変な窮乏状態であったようで、昔は福祉政策もなく、窮乏した人々は流浪の果てに路傍で行き倒れて死ぬか、この記事のように人情にすがるしか生きる術がなかったのです。
◇タコ労働者のなれの果ては、餓死か乞食
 同じような記事が「●奇特なる収入役」と題して10月13日にあります。
 「野付牛駅午前10時25分発上り汽車の発車前 群集の人目をさけて入り来たる乞食体の男あり 同人は新潟県刈羽郡大須村字大久保150番地松浦三郎と呼ぶ者の由にて 東京募集人夫として8月中渡道せる者なるが その後当地柿沼某の部屋に就業中 不幸にして脚気病にかかり労働することあたわず 雇主の世話にて保養せるも全快にいたらず 当月7日についに解雇せられたるより 同人はやむなく足部苦痛を忍びて杖にすがり 諸所に立ち回り同情を求めんとすれど 世知辛き世に思うがごとくならず 足部の苦痛と餓死に迫りてほとんど倒れんとする境遇となり 今は恥も我慢も打ち忘れて 三等待合所に入り来りたるが 野付牛役場収入役川渕某は早くも可憐な彼に目を注ぎ 近寄ってその理由を聞き おのれまず多少の金を与え なおそばに寄り集まりたる群集に同情を訴え たちどころに幾分の金を得て その内より陸別までの切符を買い残金と共に渡し 不心得の行為を起さざるよう訓戒し乗車せしめたり 同人は一食の恵みに有りつかんとして この恩恵に浴し有難く涙にかきくれ 予想外の感をだいて乗車せるは 見るもの何れも涙を催したりと 紙より薄きは現代人情の常なるに かくも情に厚き川渕某のごときは誠に奇特の人と言うべし」 
kawabuti
 この「善行」をなした収入役の名前は、川渕眞澄といいます。印刷がよくありませんが、右の顔写真も記事と共に掲載されていますから、この記事を書いた釧路新聞記者、岡部清太郎とも親しかったのかもしれません。
 その世話になった松浦という人物は、東京から野付牛の窮屈な作業員宿舎に連れてこられて、当時は難病であった脚気になって、そのまま無情にも路上に放り出されたということです。身寄りもない野付牛では、飯にありつくには乞食になるしかなかったのでしょう。
 一般にタコという名称は、海に住むタコが空腹になると自分の足を食うという俗説から、食うに困った人夫が自分の身を前金で売っていることに連想して使われたと言われてますが、別の説では「他雇」からきているそうです。つまり、「他」の場所から「雇」われてきたことから来ているというのです。ちなみに、地元で雇われた人夫のことを、「地雇」(じこ)と言っていました。地方から出てきて、上野のベンチで行くあてもなく座り込んだ失業者を、言葉巧みに誘拐同然に連れてきたようですから、この松浦某もそんな罠に引っかかった一人でしょう。文中に「柿沼某の部屋」とあるのは、いわゆる「窮屈な作業員宿舎」のことだと思います。
 前回の『北見市史』下巻によると、「網走線(池田、網走間)、湧別線(野付牛、湧別間)、名寄線(湧別、名寄間)などの鉄道工事はもとより、明治三十年以降の道路開削、大正末期以降の灌漑用水路工事は、『タコ』と呼ばれる土工夫の労働に依存した。タコ労働者は、囚人労働の外役廃止以降太平洋戦争の終戦まで、北海道交通路整備に大きな役割を果たした。/窮屈な作業員宿舎は、囚人労働の外役が明治二十八年以降廃止されると、その拘禁・強制労働を引きつぐものとして成立し、『監獄部屋』(一名『土工部屋』)ともいわれた。」とあります。その仕組みなどについて興味のある方は、図書館で下巻の141ページ以下を読んで見てください。

 《中庭だより》 
☆12月9日、佐賀県鹿島市の森直(すなお)氏から、以前、鹿島市に送った尾崎天風の載ったニュースを見た、という電話を頂きました。天風の父親と、森氏の祖父が兄弟とのことで、そのお話では天風は地元では「百平」(ひゃくへい)と呼ばれ、小学四年で妹を連れて上京したきり、代議士になるまで音信不通だったそうです。この思わぬ反響と情報提供に喜んでおります。
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