ヌプンケシ89号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.89
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平成17年2月1日発行

北見の空に初めて飛行機が飛んだ日は?

 昨年8月、明治・大正の野付牛の様子を描き遺した西村肇氏の絵、32枚が当市に寄贈になり、これに説明をつけて11月『西村肇画集』を発行したことは以前お知らせしたとおりです。
 その中に、下に示した複葉飛行機が飛ぶ様子が描かれた絵があり、「大正六年頃 野付牛に飛行機(が)初めて来た 複葉式ヒコーキで 二人乗り白鳥号で 野付牛の香具師で初代親分、生田門大氏が唯一人空中高く乗ってビラをまき 民衆を驚かしたもので 今の小公園当り、西校の先生に連れられて見にいったもので 飛行キの組立から分解まで見たもの」と説明が添えられていました。そこで、この飛行機がいつ北見の空に飛んだのか、調べてみました。
◇『北見市史』年表編では
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 まず、昭和62年発行の『北見市史』年表編をみてみました。大正6年には飛行機に関する記述はなく、大正7年(1918)7月の項に「民間飛行家白戸栄之助、網走で飛行することになり、野付牛でも高台で飛行するよう町民より交渉する。しかし白戸は、網走側との約束で、野付牛では飛ばず」と書いてありました。これを見ても、当時は網走と野付牛は相当仲が悪かったようですね。この記述では、大正7年には野付牛で飛行機は飛んでいないことになります。念のため、この記述の根拠を年表作成の原票で確認しましたら、大正7年7月14日付の『北海タイムス』の記事からとだけありました。
◇白戸栄之助(1886〜1938)とは
 説明のあった民間飛行家白戸栄之助とはどんな人物だったか、インターネットにあった情報から見てみましょう。白戸は明治19年(1886)11月12日、青森県北津軽郡金木町に生れました。明治39年12月陸軍の気球隊に入り、明治43年退役後、民間飛行機製作者・奈良原三次の下で操縦士になりましたが、その操縦技術は日本初飛行の徳川好敏大尉からの口伝を基に独学で身につけました。明治45年4月、川崎競馬場で開催された有料公開飛行会で、白戸は奈良原式4号機「鳳号」を操縦して我が国民間操縦士第1号の名声を得、同年5月11日青山練兵場で時の皇太子(後の大正天皇)等の前で飛行を披露、大成功を収めました。大正元年(1912)10月から同2年11月にかけて、鳳号で中国・九州・四国・朝鮮・北海道・東北等全国で巡回飛行を行い、飛行機について実物で啓蒙して回ったのでした。
 大正5年12月、千葉県千葉町(現・千葉市)に飛行士養成のため白戸飛行練習所を開設。その後、大正7年8月より同8年2月までシベリア出兵に動員され、その間は、はつ夫人と一番弟子の高橋信夫(本道出身)により練習所は運営されました。
 ところが、大正12年2月に島田武男飛行士が、続いて4月、高橋が航空事故死すると、やむなく航空界から引退し、木工業へ転職。日本民間航空の黎明期に大きな足跡を遺して、昭和13年(1938)3月24日に死去しました。
◇網走で飛んだ日は大正 7年 7月17日
 それでは網走ではいつ飛んだのでしょうか。網走市立図書館の親切な職員の方に調べてもらいましたら、昭和46年(1972)3月刊行『網走市』下巻に次の記述がありました。「(前略)飛行機が、網走でも初めて飛んだ。大正七年のことである。同年の高田源蔵日記に、/七月十七日 晴 待チニ待タル飛行機モ弥々本日ハ快晴ニ付、予定ノ三回通リ三回ツツ飛行ス。前日来降雨ニテ他所ヨリ見物皆帰宅セシ爲、案外入場者不足ナリ、桟敷ノ如キ丸明。/とある。十四日の予定が、天候不良のため延期されていたもので、場所は川向の競馬場であったといわれるが、飛行士の氏名は明らかでない。」網走では当初7月14日に飛ぶ予定が雨で順延になり、17日に飛んだものの、他所から見物にきていた人達は家に帰り、入場者は少なく、桟敷は丸明=丸あき、つまりガラ空きになっていたということで、興行的には失敗したということなのでしょう。
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◇野付牛で飛んだ日は7月21日
  ところが昨年『西村肇画集』を発行後、屯田兵で入植して以来、書き残された茶木與三さんの日記を調査中の伊藤調査員が、大正7年(1918)7月21日付の記録欄に次の記述があるのを発見しました。
 「市街地高台営林区事ム所附近ニテ飛行機登リ 禅寺迄高空ヲ飛行キ廻リ 位置ニ帰リ止リ一回ニ二廻リニテ 四回登リ 午后四回目ハ当給与地中央迄廻リ来リ」
  高台営林区事務所附近というのは、現在、筆者が執務している市役所の別館あたりになります。そこを飛行場に大正7年7月21日、一日4回、高台寺まで2周の飛行が行われ、最終4回目には茶木さんが住んでいたハッカ記念館あたりまで飛んでいったことがわかりました。
 多分、網走での興行が不入りだったので、その赤字を埋めるため、急きょ、野付牛でも飛行会を開催することになったのでしょう。
 それではどんな飛行機が飛んだのかということになりますが、当初筆者は左上段に示した行灯の化け物みたいな「鳳号」だと思っていました。
 ところが、『目で見る北見・網走・紋別の100年』に「空からの来訪者(遠軽町・大正7年)」と説明のある、中段の写真を見つけました。この写真の機首をみると、四角い鳳号のとは明らかに別です。なお、同写真は遠軽町図書館さんに調査して貰ったところ、同年8月2日に撮影されたものだそうです。
 筆者は西村氏の絵に一番似ている下段の、道新昭和51年10月20日付「ヒコーキ物語」10にある白戸式薫号が、大正7年網走管内を巡回興行した飛行機ではないかと推測しています。

 《中庭だより》 
☆今回の初飛行日究明も、茶木さんが遺された日記に決め手がありました。庶民の記録の中に隠された真実が潜んでいる場合もあります。皆様には保存と提供をお願いいたします。
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