ヌプンケシ90号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.90
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平成17年2月15日発行

◎壬申戸籍と北見国

 今回は戸籍の面から、網走管内について、少しレポートして見ましょう。
 明治以前には、北見地方には少数のアイヌ人しか住んでいなかったことはご存じのとおりです。幕末の探検家、松浦武四郎は安政5年(1858)、アイヌ人の案内で常呂から常呂川をさかのぼり、端野、当市の中ノ島を通り、訓子府まで足を伸ばしています。その時の調査内容を彼は「戊午登古呂日誌」に記し、その頃の当地方を知ることができる唯一の資料となっています。

6 明治政府は蝦夷地開拓の手始めに、明治2年(1869)8月、松浦武四郎に蝦夷の改名を諮問し、その提案のあった幾種類かの案を基に、「北海道」と名づけ、それを11国に分割し、その国をさらに86郡にわけることとしました。その結果、当地域は、北見国(範囲は、現在の国会議員の選挙区と同じ)、8郡(宗谷・利尻・礼文・枝幸・紋別・常呂・網走・斜里)の内の常呂郡に属することとなりました。当初各郡は本州の藩が分領しました。その内訳は斜里郡・網走郡が名古屋藩、常呂郡が広島藩、紋別郡が和歌山藩、枝幸・宗谷・礼文郡が金沢藩、利尻郡が水戸藩となっていましたが、水戸藩を除き、明治3年には管理を返上しました。宗谷郡には明治2年10月から開拓使宗谷出張所が設置され、明治3年の時点で斜里、網走、紋別に開拓使の役人の詰所が置かれたようです。これらが北見国で最初の行政機関の配置でしょう。
◇明治政府による「壬申戸籍」の編製
 近代国家は租税によって財政を賄っていますが、そのために国民の実態を数的に把握する必要があり、その一つの方法が戸籍登録です。明治4年(1871)4月4日に公布された戸籍法は、全国民が戸籍に登録することを義務づけたものであり、この戸籍登録の地域責任者のことを「戸長」といいました。
 この時に編製された戸籍を、評判の悪い「壬申(じんしん)戸籍」といいます。何故評判が悪いかと言うと、この戸籍には登録された人の、華族・士族・平民・新平民(穢多・非人)などといった旧身分が記載されているからです。いまでも本州では未解放部落の差別が厳然としてあり、この出自が分かる「壬申戸籍」は昭和43年(1968)に閲覧禁止措置がとられました。
 北海道においても北海道開拓使が戸籍を編製しようとしましたが、函館など道南はともかく、道内陸部にはアイヌ人しか住んでいない状況で、しかも行政組織も未整備でした。
◇北見国における戸籍編製
 当地方を管轄していた根室出張開拓使庁は、明治5年3月にまず管内のアイヌコタンを村にすることとし、そのコタン名を用いて村名を定めました。常呂郡下には「トコロ村、チイウシ村、トウフツ村、ムエカホツネ村、フトチャンナヘ村、ノツケウシ村、テシヲマナビ村」の7村が誕生しました。(なお、明治8年5月、根室支庁から各村名を本字に改正することが布達され、前記の村々は「常呂村、少牛村、鐺沸村、生顔常村、太茶苗村、野付牛村、手師学村」となりました。)しかし、これらの村々には境界もなく、点として存在していたにすぎません。ムエカホツネ村=生顔常村にいたっては、現在では何処にあったかも定かでありません。
 当然、戸長になるような者もいないわけで、江戸時代から場所請負人としてオホーツク沿岸を支配してきた魚場持の力を借りねばなりませんでした。昭和35年12月発行の『紋別市史』によれば「北見国各郡の戸長は、漁場持藤野の使用人である漁場差配人がそれぞれ戸長に任用されたようである。『開拓使根室支庁日誌』では『明治五年四月二十八日各戸長を初めて任命した』とあり、(中略)北見地方は紋別、常呂両郡の戸長が紋別漁場の差配人盛田辰蔵、網走郡は松野三右衛門(『常呂町史』では佐々木三右エ門とある。−引用者)、斜里郡は原田長右衛門と、いずれも漁場差配人であり、戸長であった。郡戸長の職責については、明治六年五月二十三日付布達に『人民一般伺願届ハ長ノ自今戸長ノ奥印ノ上可差出』とあって、住民の諸般の伺書や届願書には戸長の奥書捺印を得て差し出すこと、さらに同年十月の布達」では、「支庁の駐在官吏の補助機関として戸籍調査あるいは官令の伝達奥書経由といったことだけでなく、生業の保護指導、人民の教導までにおよび、かなりの行政諸般にわたるもので、行政機関としての色彩をしだいに増していった。/ただこの戸長時代は後の戸長役場と違い、戸長役場が独立していないので、その事務は漁場差配人兼務であった関係から、藤野の番屋もしくは差配人宅でとられ、これを村会所と呼んだようである。また給料も支給されなかったらしい。」とあります。
 北海道立文書館発行『研究紀要 第17号』に掲載された、青山英幸氏の論文「開拓使の壬申戸籍編製について」によれば、明治6年(1873)2月、開拓使が戸籍編製上の疑問点を整理した文書中に、「北見国中ノ如キ旧来ノ土人ノミ住シ候処ハ土人中ニテ御用弁相成ル者有之ハ戸長タラシメ如何ニ候哉」とあり、「伺之通」と回答されているそうです。この文からも、明治6年当時、北見国には土人=アイヌ人しか住んでいなかったことが分かります。ただし、アイヌ人が戸長となった記録を、筆者はこれまで見たことがありません。
 同論文によれば「開拓使管轄下の壬申戸籍が当時の担当省である大蔵省に提出されたのは、明治六年(一八七三)十一月」だそうです。この時の北海道開拓使が編製した戸籍には前述したような大まかな村名はあっても正確な住所を欠き、多くは戸籍というより「人別帳」に近かいそうです。残念ながら、同論文には戸数、人口について具体的な数字の提示はありません。
◇初めに役所あり
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  郡役所の役人とアイヌ

 昭和46年3月発行の『網走市史』下巻には、「初めに役所あり」という見出しで「明治十三年(一八八〇)七月十五日、網走の官用地にあった小さな建物に、新しい門標がかけられた。/開拓使 網走 斜里 常呂 紋別 郡役所/前年七月に設置を決定していた郡役所が、い良いよこの日に開庁したのである。網走郡役所の定員は、郡長以下郡書記二名、ほかに雇員二名程度であった。庁舎も二十五坪の小世帯ながら、それは標札の示すとおり、北見国東部四郡を総括する最初の独立官庁であった。」とあり、これが現在の網走支庁の起源です。
 郡役所が開設される直前の明治13年(1880)1月1日現在「管内景況調」で見ますと、四郡全合計の戸数は254戸・人数955人(うち男456人・女499人)、常呂郡の全合計は戸数が30戸・人数120人(うち男53人・女67人)で、常呂村は戸数17戸・人数62人(うち男27人・女35人)、鐺沸村は戸数8戸・人数30人(うち男16人・女14人)、太茶苗村は戸数1戸・人数6人(うち男3人・女3人)、手師学村は戸数3戸・人数17人(うち男6人・女11人)、野付牛村は戸数1戸・人数5人(うち男1人・女4人)で、少牛村と生顔常村にはいずれも記載がありません。管内人口のほとんどはアイヌ人であったようです。『網走市史』下巻は、「北見の拓殖は、郡役所の開設を機として、着実に動きだしたのである。」としています。

 《中庭だより》 
☆今号は管内の行政の起源と戸籍の関係について書こう、と軽い気持ちではじめたのですが、見る資料ごとに疑問が生じて筆がとまり、発行が遅れてしまいました。資料の安易な孫引きで大変な間違いをしている文献も発見し、市史編纂担当者として色々考えさせられました。
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