ヌプンケシ92号

北見市企画部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.92
タイトルヌプンケシ
平成17年3月15日発行

◎野付牛村外一ケ村戸長役場                92-3
◇常呂村外六ケ村戸長役場は閑散
 昭和8年(1933)に発行された米村善男衛著『北見郷土史話』に「常呂郡最初のお代官松田三次郎さんの話」が次のように紹介されています。
 「私の郷里は鹿児島ですが 網走に来たのは明治十五年(1882年−引用者)でありまして網走外三郡役所書記を拝命致しました。翌十六年に常呂外六ケ村戸長役場を設置するに及んで 私は其の戸長を命ぜられて就任したのです。/常呂外六ケ村と言へば常呂一郡であって広大なものでしたが人口から見ると実に微々たるもので、常呂市街地となってゐる處等も又十(魚場持の藤野家の屋号−引用者)関係以外は殆んどない位でした。大越喜三郎さんは又十を止めて別に家を持ち其他一二戸もあったと思われる位でした。/就任中の事務所は誠に閑散なものでした。当時は三県時代と言ふて県庁は根室にあり県令は湯地定基と言ふ人で、此の本庁に公務を帯びて出張する時等は実に困難したものでした。/夏季は海岸地帯の歩道を行くと左程でもないが、冬季中の出張は山間のアイヌ小屋を辿って行くのである。アイヌ人は夏は海岸地帯に家を持ってゐるが、冬は山間の猟に都合の良い所に小屋を建てる。其の小屋でも美幌のウインドク等は個人で相当なものを建てて居るのでよく世話になった。(後略)」
 この文を読むと、戸長役場も開設当初は人口がほとんどなくて、従って仕事もなく、事務所も閑散としていたようです。一番困難な問題は、冬季にアイヌ人を頼って常呂から根室まで出張することであったことがわかります。
 明治19年1月には三県一局制が廃止になり、北海道庁が設置され、根室支庁が当地域を管轄しましたが、同年12月に同支庁は廃止され、網走外3郡は北海道庁の直轄となりました。
◇当地域開拓の転機は北見道路開削
 当地域開拓の転機になるのは、ロシア南下政策に対応した軍用道路=中央道路整備の一環として、明治24年(1891)4月から12月まで囚人を使役して実行された、網走から北見峠を経由して上川まで約230キロメートル及ぶ北見道路の開削です。これに先立って、釧路集治監(今で言うと刑務所)から約1,000人の囚人が動員され、明治23年「網走囚人宿泊所」が開設され、翌年8月16日には、釧路から分離して、「北海道集治監網走分監」となりました。

92-1 開削工事には囚人約1,100人前後が駆り出され、逃亡死3人・拒捕斬殺8人を含め、この工事での死亡者は一説では248人になるといいます。明治24年8月16日の収監者1,393人で死亡率を出すと17.8%と大変な高率になります。多くはビタミン不足による脚気で病死したようですが、工事用機械のない時代、モッコと鍬・ツルハシしかなく、朝早くから夜遅くまでの過酷な長時間労働が死期を早めたことも否定できないでしょう。当地の開発がこうした犠牲の上に成り立っていることも忘れてはならないと思います。
 この中央道路開削と並行して4〜5里おきに官設駅逓(えきてい)が12か所(前ページ図参照)に置かれ、当地域の内陸部を安心して旅行ができるようになりました。駅逓というのは、「人馬車継立所」ともいい、旅行者の休憩宿泊と、荷物・郵便等を馬で次の駅まで継ぎ送りする施設で、郵便局と宿屋をかねたものと思えば良いでしょう。明治29年(1896)には、この道路と駅逓を利用して、屯田兵村建設のために職人たちが各地から当地域にやってきました。
◇野付牛村外一ケ村戸長役場
 明治30年6月、屯田兵第四大隊本部が根室和田村から野付牛村に移駐しました。屯田兵が野付牛に600戸、湧別に400戸と入地が確定したのに伴い、同年6月15日、常呂村外六ケ村戸長役場から分離して、野付牛村外一ケ村(生顔常村)戸長役場を現在の端野町二区にあった大谷派本願寺説教所に開設し、初代戸長には根室から田中愿(すなお)が着任しました。8月には当市本覚寺の前身である説教所に移転。その後、寄付金をもって完成した新庁舎に移りました。現在の場所は、東9丁目のガソリンスタンドがあるところです。

92-2 野付牛村外一ケ村の行政区域は、石狩・十勝に接し、その面積は約1,860平方キロメートルで、淡路島の3倍、香川県の面積に匹敵したそうです。
「初期の戸長役場の担当事務は村内の戸籍と小学校に関する事務を取り扱うだけであった。一般自治体が担当する行政上の大部分は屯田兵が明治三十六年現役解除になるまで屯田大隊本部と中隊本部内で施行されたのであった。明治三十六年三月屯田兵の現役解除で、大隊、中隊本部の退去、屯田兵の身分の一般民化のよって戸長役場は初めて一般行政を担当することになったが、相当期間、住民の大部分が旧屯田兵出身で占められていたことと村内の広大な旧公地の存在でその措置については依然、旧屯田兵の自治的組織(諮問会公有財産取扱委員会)に頼らなければならなかった。教育費は特別会計として端野、野付牛、相内、訓子府の通学区ごとに不均一な賦課制とした。」(昭和58年発行『北見市史』下巻より) 当時、屯田兵の組織が大きな影響力を持っていたことがよくわかりますね。
 しかも、その「小学校に関する事務」も平成2年(1990)に発行された『端野小史 端野の夜明け(第三集)』には「教育費のごときは各兵員の寄附金を中隊から戸長役場に交付し、教員の俸給その他の支払いに充てた。教員の進退、学務の一切は中隊の学務委員の指揮するところにより、戸長はたんに表面上の手続きをおこなうにすぎず」と書かれています。
◇網走支庁の新設
 明治30年5月29日、勅令で北海道区制・北海道一級町村制・北海道二級町村制が公布されましたが、実際に施行されたのは区制が明治32年、一級町村制は33年の大改正から、二級町村制は35年の大改正からでした。
 北海道開拓の進展にともなって道の行政機構も改めることになり、明治30年11月2日、これまでの郡役所を廃止して全道19支庁制(現在は14支庁制)とすることにしました。ちなみに、その内訳は、札幌・函館・亀田・松前・檜山・寿都・岩内・小樽・空知・上川・増毛・宗谷・網走・室蘭・浦河・釧路・河西・根室・紗邦でした。見たことのない地名もありますね。
 これにより網走支庁が新設され、初代支庁長には岡次郎太郎が就任し、北見地方も行政的に独立した区域となり、現在まで続いています。

 《中庭だより》 
☆この号でも途中で筆が止まってしまいました。野付牛村外一ケ村の開設月日が『北見市史』年表編では「7月15日」になっていたからでした。他の文献では「6月15日」が多数派なのでそれを採用しましたが、これも文書館に問合せすることにしました。結果はお知らせします。
NO.93へ
よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館