ヌプンケシ94号

北見市総務部(市史編さん担当) 〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157‐25‐1039


市史編さんニュース NO.94
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平成17年4月15日発行

◎北見消防100年       tobi
 北見消防100年記念式典がこの3月20日、北見芸術文化ホールで挙行されたことは、新聞等でご存じでしょう。今号は消防の始まりについて、みてみることにしましょう。
◇私設「野付牛消防組」
 明治39年(1906)3月17日、下常呂警察分署の認可を受けて、料理屋市川亭の経営者で村の顔役であった鈴木幸吉を組頭に34,5名を募集した私設「野付牛消防組」が当市の消防の始まりでした。当時の装備は鳶口、ズックバケツ、電信工夫からの払い下げ古梯子、目印の野付牛消防と染め抜いた手拭いで、その費用は組員各自が50銭を負担して賄われた、全くのボランティアだったのです。その頃の消火活動は、火事となれば火元の近くの家等を破壊して、可燃物を除去し、延焼を防ぐ消火活動でしたから、鳶口は必需品だったのです。
 余談ですが、その火元を示す目印に使われたのが纏(まとい)で、落語や講談に出てくる「纏持ち」は、纏を振るって身に降り注ぐ火の粉を払いながら、危険な火元の家の屋根にたって、火消しの精神を鼓舞しましたから、火消しの勇気を代表する花形スターでした。
 この消防組を組織する経緯については、鈴木幸吉の『事蹟録』に次のように書かれています。
 明治38年「当時丸玉工場乾燥室ヨリノ出火、其他ニ小火頻々ト発シ同年五月相内付近ノ山火ニヨリ小学校々舎ノ全焼、殊ニ年々融雪季ニハ山火ガ頻発ノタメ、其損害ト危険少カラザレバ是ニ対シ吉川吉三郎氏ハ拙者ヲ訪レ何トカ是レガ防備対策トシテ貴下ノ尽力ヲ以テ当所ニ消防組ヲ創設シテ呉レトノ依頼ニ接シタル故、皆様ノ希望ナレバ及バズナガラ設立ニ努力センコトヲ受諾シ、直チニ戸長岩渕周之助氏ニ諮リ協賛ヲ得テ是レガ手続キニ着手シ」たそうです。(ただし、相内小学校火災は実際は5月ではなく1月31日だそうです。)
 野付牛村に多くの人たちが定住するにつれて、頻発する火事に対して「自分達の村は自分達の手で守れ」という意識が生れ、こうした消防組織が出来たのでしょう。
◇寄付で消防整備

hinomitei 明治40年に戸長役場横に火の見梯子を作ったようですが、これは5月に梅原、黒部が川向の共同牧場からマッチ軸木の原木である白楊を、常呂川を利用して丸玉木材まで流送したところ、雪解けの増水で流失しそうになったのを、消防組の助けを借りて原木を引き上げることができたのが発端でした。二人はお礼にお金と酒を鈴木組頭のところへ持ってきましたが、彼はこれを断り、かわりに非常召集用の板木(ばんぎ)とそれを吊るせる梯子を希望したところ、すぐに火の見梯子を作製して、寄付してくれたそうです。明治43年には半鐘が吊るされました。
 それでは消防ポンプはいつ整備されたかということになるのですが、『事蹟録』によると明治40年8月に梅原旅館付近で火事があり、全焼一戸で鎮火したのを住民が見て、消防の効果と消防組の非常な努力を認め、苦労に同情して、有志が相談の上、ポンプ・梯子・刺又・纏当等を新調するための寄付をしたいとの申し出があり、鈴木は喜んでこれを受け、役場より東京へ早速注文したそうです。網走港に現物が届いたものの、寄付金が集まっていなかったので、嶺次郎吉が役場より公金265円を借り受け、鈴木がその金を持って網走に出向き、ポンプを持ち帰り、早速試験をしたところ成績良好で収納したそうです。
 このポンプは、大正15年刊行の『野付牛町誌』によれば「独乙(ドイツ)式第二号型」という形式の腕用ポンプでした。腕用ポンプというのは、ポンプの両側からシーソーのように、交互に横木を人力で上下させ、ピストンを動かす形式でした。今の消防車から見たら子どもの水鉄砲くらいの威力でしょうが、当時の人たちにとっては、心強いポンプだったことでしょう。
◇公設「野付牛消防組」
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 明治45年2月28日付、北海道庁令第十五号をもって、野付牛消防組の公設認可が告示されました。これによれば、組名は野付牛消防組、編成区域は野付牛村市街地一円、人員は組頭1・小頭8・消防手58となっています。(小頭は3名しかいないなど、実際は告示と相違する点もあるようです。)
 平成2年発行『消防史 北見の消防』に公設認可直後と思われる、纏と鈴木組頭を中心にした消防組の写真が紹介されていますが、幹部クラスの組員は手鳶をもち、その他は全員向こう鉢巻、半纏、腹掛け、股引に地下タビ、ワラジ履きの服装です。装備は腕用ポンプ1台、水管車1台、組旗一、竹梯子、鳶口多数といったところです。
 大正2年には、それ以前にポンプの寄付もあって、駅を中心に組の編成区域を東西に二つに分けた2部制となりました。右上の絵は、以前紹介した西村肇氏が描いた大正5年頃の、鳶口を肩にポンプを曳き、火事場目指して走る消防組の出動風景です。のんびりしていた時代でもあったのでしょう。説明には半鐘が「ヂャンとなれば召集のラッパを吹く。そして集まったら点呼をして火事に行列して走る。現代から見たらトロクサくて。」とあります。
◇野付牛大火
 大正3年(1914)5月11日には、放火で272戸、新市街地の6割を消失した大火災「野付牛大火」がおきました。消防組のポンプ2台に、丸玉木工場の私設消防団ポンプ1台が応援したそうですが、「焼け石に水」だったことは話すまでもありません。その被害の様子は5月13日付釧路新聞で次のように報じられています。「野付牛大火 消失戸数二百七十/損害額概算十余万円/昨夜十一時五十分野付牛市街大通り三丁目角裏長屋右一号山本熊太郎方より出火す。連日の好晴に乾燥せる家屋はあたかも火を呼ぶ如く忽ち四方に延焼、猛炎は大通りと一条通の左右二手に分れて東に進みついに同市街の目貫の箇所十数町を烏有に帰し翌午前三時頃ようやく鎮火せり 焼失戸数二百七十余戸、損害概算十万余円に
taikaして人畜に被害あらざる模様なるも電柱の焼失せるもの三十本に達す 実に開村以来の大火なり(十二日野付牛支局発電)」
 5月14日付釧路新聞には、続報として左の「野付牛大火焼失区域」が掲載されています。これで見るとその焼失範囲の広さがよくわかります。釧路新聞支局の岡部清太郎自身も焼け出されたので、この区域図は相当信憑性が高いものと思われます。この大火に井上伝蔵一家も巻きこまれたことは皆さんもご存じのとおりです。(終)

 《中庭だより》 
☆3月14日、『新江別市史』本編・資料編が当室へ寄贈されました。本編762ページ、資料編346ページで大変読みやすい編集がなされており、値段もセットで税込み8千円と読者にとってはお手ごろです。こうした先進市に学びながら少しでも良い本を創りたいと思いました。
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