ヌプンケシ97号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.97
title
平成17年6月1日発行

◎シベリア抑留                                           zaim
 この間、北海道新聞では戦後60年の特集として、戦争体験者からの体験記事が連載されていました。戦争体験者もご高齢になり、その体験を今語らないと永久にその記憶が失われるという思いで、重い口を開かれた方も多数紹介されて、戦慄を覚える内容も多々見られました。
 先の5月13日付、北海道新聞オホーツク版で「シベリア抑留生々しく」という見出しで、昨年4月に83歳でなくなった、春光町の福茶菓子店のご主人、木下林造さんの遺稿について、紹介記事がありました。木下さんも、ご自分の体験を後世にしっかりと伝えようと、奥様に勧められ、せっかく筆をとりながら、原稿用紙19枚で絶筆となったのは実に惜しいことでした。聞くところでは、北見叢書刊行会で現在企画されている戦争体験集に、木下さんの記録も載せられるそうで、少しは木下さんや奥様の願いが果たされるのではないか、と思っています。
 そんなことで、今回はシベリア抑留について、レポートしてみましょう。
◇シベリア抑留とは
 若い方には「シベリア抑留」と言っても何のことか、さっぱり分からないことでしょう。そこで1997年発行『日本史広辞典』(山川出版社)を引くと、「第二次大戦の敗戦により満州・北朝鮮・樺太・千島列島の日本軍人・満蒙開拓団農民・満州国関係職員などがソ連に抑留されて各地で強制労働に従事したこと。ソ連軍による武装解除後、シベリアを中心とする各地の収容所に送られ、鉄道建設、炭鉱、道路工事、農作業などの労働をさせられた。待遇は過酷なもので、抑留者57万〜70万のうち約1割が死亡したと推定される。抑留者は1946年11月の成立した「引揚げに関する米ソ暫定協定に従って、12月にナホトカから引揚げを開始、50年4月末までにほぼ帰国を完了した。現在までに旧ソ連から引き渡された抑留中死亡者名簿搭載者は4万25人」とされています。また、角川新国語辞典によれば、「抑留」とは「無理に引きとめておくこと。特に、自国内にいる他国の人・物を強制的に引きとどめること。」です。

yokury ですから、1945年8月15日で戦争が終わったと思うのは大間違いで、抑留された方々にとっては帰国するまで戦争の極限状態は続いていたのです。私が子どもの頃、もう50年ほど昔になりますが、父親と同世代の知り合いのおじさんから、どうした具合か、シベリアに抑留された頃の話をきかされました。なにしろ食い物がなかったこと、自分が生き残るために、死んだ人から靴や服、利用できるものはみな剥ぎ取ってから埋葬したことなど、今でも印象にのこっています。
 上の絵は、1995年発行『はるかなシベリア』(北海道新聞編)に掲載されていた、吉田勇さんという方が描いた絵ですが、全くそのおじさん(故人)が語っていた場景そのものです。
◇シベリア抑留の起源
 シベリア抑留の起源は、帝政ロシアにおける政治犯のシベリア流刑制度までさかのぼることができます。ロシア革命後、スターリンの独裁が進む中で、それが権力の一方的な裁断で「反革命分子」と判定された人々を逮捕して過酷な労働を強制する「収容所」(ラーゲリ)となり、独裁恐怖政治の暴力装置として常設化されました。こうした状況を小説『イワン・デニーソヴィチの一日』『収容所列島』で告発したのが、ノーベル文学賞受賞者ソルジェニーツィン(1918年12月11日生れ)でした。長い間、ロシア辺境の「強制収容所」には何百万の人々が捕らえられ、社会的生産システムとして整備されました。その経験と技術が日本人抑留者の「シベリア抑留」に活用されたのです。つまり、国家の前にロシア国民自身の基本的人権さえ保障されていない以上、敗戦国民の人権など無視するのは当然だったのです。
◇シベリア抑留の目的
starin
 北海道新聞から2001年発行された『スターリンの捕虜たち』で著者ヴィクトル・カルポフは次の様に書いています。
「日本将兵にとって捕虜になることは不可避だった。ソ連内では彼らを労働に使役するというスターリンの決定は、歴史的過去において日本がロシアに敵対して行動したことへの復讐に基づいたものでは決してなくて、客観的な必要性に基づいたものである。スターリンの決定は当時の事象に合致していたし、ソヴィエト社会でも理解を得ていた。しかしながら、日本の軍人を極めて長期にわたって—1945〜56年—捕虜にしておいたことを説明するのは難しい。理由には軍事・政治的要因のほか経済的、イデオロギー的要因も見出すことができる。
 『冷戦』と強まりつつあるアメリカとの対立という条件の中で、ソヴィエト指導部は、あり得べき旧連合国間戦争において、もしくはアメリカが北朝鮮や中国を攻撃した場合において、日本軍の現役兵を利用するという仮説的な可能性を回避したかった。ソ連が日本人捕虜を自国に連行する主な目的は、彼らを労働力として使役することである。この労働力は戦争で破壊された経済の復興を目的として、戦争での人的損失や収容所総管理本部のシステムにおける囚人の減少によって生じた働き手の不足を補うはずだった。ソヴィエト政権時代日本がソ連にもたらした損害をほんの少しでも賠償すべきだ、ということも自明だった。しかもソ連は、日本が戦後おかれていた深刻な状況を考慮して、日本に賠償支払い要求を出すのを断念したのである。
 イデオロギー的要因の本質はソヴィエト化政策をしたことで明らかである。ソヴィエト指導部の考えでは、政治的かつ心理的プランで数年間洗脳された捕虜は、日本でソヴィエト体制の宣伝者になり、左翼勢力の中核となる使命があった。ソ連の極東政策が最大の成功を収めたのは、その軍事的影響力の助けでソ連に忠誠な政府を樹立するのに成功した国においてである。これは明らかに中国や北朝鮮のような国に当てはまる。こうして、ソ連みずからに課した軍事・政治的戦争目的は達成された、と言っていい。日本との関係ではソヴィエトの政策が十分に実現したわけではなかった。満州で日本軍の軍事的集結を殲滅したが、ソ連が日本列島に至る道を開きはしなかった。このことが、ソヴィエトの捕虜として在留する日本兵をソヴィエト化するという政策を説明するだろう。親ソヴィエト派の日本人層をつくることで世論に、そしてつまるところ日本政府の政策に影響を与えるだろうことは自明のことだったのである。」
 要約すれば、第一に抑留者をドイツとの戦争で喪われた労働力の代替にしようとしたこと、次にアメリカなどに旧日本軍の兵力が利用されないようにすること、第三が抑留者を洗脳して日本に送り込み親ソヴィエト派の層を作ること、がシベリア抑留の目的だったということです。
 1945年12月29日時点の赤軍後方部隊長参謀資料によると、日本将兵は656,871人いたことになっており、この著者の調査によると抑留中の死亡者は92,053人になるそうです。

《中庭だより》
☆5月26日、東京の方が帯広に仕事に来たついでに、井上伝蔵関係が知りたいということで当市まで足をのばしてくれました。急なことで当方も十分な応対ができず、失礼いたしました。
よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館