ヌプンケシ98号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.98
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平成17年6月15日発行

◎シベリア抑留と北見市民(1)

 北見市でもシベリアに抑留された方達は多数いた筈なのですが、人数等についてふれた資料を見たことがありません。そこで手元にある資料で、その実態を探ってみたいと思います。
◇ポツダム宣言に違反
 その前に、まずシベリア抑留の違法性について、書いておきたいと思います。
 昭和20年(1945)5月7日ドイツが降伏したのを受けて、対日降伏勧告についてベルリン郊外のポツダムにおいて米英ソの首脳が会談し、その結果を中華民国の蒋介石が承認するかたちで、米・英・中三国の名で同年7月26日に発表されたのが、ポツダム宣言でした。その内容は全13条からなり、軍国主義の除去、「新秩序が建設せられ、且日本国の戦争遂行能力の破砕せられたことの確証あるに至る迄」の連合国軍の占領、日本の主権の本土4島への制限、軍隊の完全な武装解除、戦争犯罪人の処罰など、対日占領政策に基本方針ともなりました。連合国の領土不拡張を確認したカイロ宣言を履行するとしたこの宣言は、実際にはソ連への千島列島譲渡、米国による沖縄分離・軍事支配を認める、大きな矛盾を含むものでもありました。
 最初、昭和天皇と大日本帝国政府は、このポツダム宣言を黙殺、それを連合国は拒否と判断、原子爆弾投下、ヤルタ協定に基づくソ連の8月8日対日参戦による満州での多大な犠牲を見て、8月14日の御前会議で「国体護持」を前提にポツダム宣言を受け入れました。一般には8月15日の玉音放送ですぐに戦争が終わったように思われていますが、9月2日の降伏文書に調印して正式に降伏したわけで、関東軍の一部は9月上旬まで絶望的な戦闘を続けていました。
 そのポツダム宣言の第9条には「日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし。」とあります。つまり、日本の兵士は武装解除されたら、家庭に復帰して平和で生産的な生活を営む機会が与えられるとされていたのです。実際、米軍が占領した地域では、現地で武装解除された兵士たちの多くは輸送船など輸送手段が整い次第、順次日本本土に送り返されていきました。
 ところが、ソ連軍に占領された満州では、兵士達は武装解除後、しばらく満州に留め置かれ、
nihon日本に帰国させるという嘘で汽車に乗せられて、1945年9月現在、ソ連領内のシベリアから中央アジアにかけてあった62ヵ所の収容所(翌年には71ヵ所)に強制連行されたのでした。これは、完全にポツダム宣言の趣
旨にも違反した行為でした。
 左の写真は、北海道新聞社編『はるかなシベリア』(1995年7月発行)に載っていた、場所は不明ですが、武装解除後、結集させられた日本兵の様子です。
◇シベリア抑留で死亡した北見市出身者
 平成15年10月に市史編さん担当で作成した『戦没者記録』には、日露戦争から第2次世界大戦までの、北見市関係戦没者の氏名が1,119名記載されています。そのうち、シベリア抑留中に死亡したとみられる方が14名おり、その氏名と死亡年月日は次のとおりです。
 (1)今村隼人 昭和20年12月10日 (2)河原栄治 昭和21年5月22日 (3)菊地良直 昭和21年10月15日 (4)北沢 広 昭和21年4月30日 (5)坂口正雄 昭和23年5月6日 (6)白岡春実 昭和21年4月15日 (7)杉森 洋 昭和20年12月24日 (8)住大 正  昭和20年12月3日 (9)田村 亮 昭和21年1月16日 (10)弦巻友秋 昭和21年8月3日 (11)新田光男  昭和21年5月15日 (12)林 米造 昭和22年10月1日 (13)掘江 晃 昭和21年3月28日  (14)溝渕政治 昭和21年2月5日
 14名の死亡年月日を見て、何かお気づきになりませんか。昭和20年の冬から翌年の10月にかけて12名の方がなくなり、22年が1名、23年が1名となっています。大部分が病死とみられますから、これだけでも収容所初期の生活環境がいかにひどかったかが推測されます。
◇初期収容所の状態
 収容所に連行された人たちは、すぐに夏服のまま木材の伐採・運搬、道路や鉄道の建設、家屋建設、採炭などの重労働に従事されられました。その冬になっての状態を、前号でも紹介したヴィクトル・ポルカフは、その著書『スターリンの捕虜たち』で次のように記しています。
 「ちょうど初めての冬だったが、日本人捕虜が入れられたバラックは大部分、冬季の条件にあわせては準備されていなくて、バラック内の気温は戸外と同じとは言わないまでも『非常に低かった』。ほんの少し温かくすることは可能だ。捕虜は服を着たまま眠り、それによってお互いに暖めあっていた。『過密』が収容所では当たり前のことだった。一年目の冬の収容所にとって他に劣らず特徴的だったことは、ほとんど全く『シラミだらけ』だったことだ。これとの闘いは除染された部屋と浴場があってはじめて行うことができたが、前者は全くなかったし、後者は収容能力が低かったり場所によっては全く欠いていたので役に立たないことがわかった。捕虜にシーツを支給したなどということは、言うまでもなく全くなかった。この光景は、捕虜の労働を使役して彼らの面倒を見るべき収容所当局や警戒兵や運営機関の側からの、日本人捕虜に対するあからさまな敵対的態度を背景にして起きていたのだ。」
 「ただでさえ捕虜の状況は困難だったのに、食糧が供給不足になる場合や、その質が日本人の伝統的な食事にふさわしくない劣悪なものである場合が増えた。飢餓にみまわれていたソヴィエト国家で捕虜に良い食事を期待するのは難しかった。しかし、捕虜が受け取った配給量はソヴィエト市民のそれよりも多かったのである。/このことから不可避的な結果が生じる。—ソヴィエト将兵が捕虜を犠牲にして自分と家族の配給食糧を補充したのだ。これは捕虜の食糧不足を引き起こした。日本の将校は兵卒と共に食事の苦境を分かち合おうとはせず、自分に完全な配給量を要求した。将校の要求に応じなかった場合は彼らもソ連の将校がやったことと同じことをしたのだ—《飢えは大敵》というわけである。日本の兵卒は残されたもので満足せざるをえなかった。/劣悪な食事と劣悪な生活条件には、捕虜への積極的集中的な搾取が随伴・追加されていた。捕虜の労働日は10〜14時間におよび、休日は与えられず、しばしば作業現場にたどり着くのに働くよりも長くかかった。その結果、捕虜の労働生産性は初期の段階で計画値の10〜15%だった。」これらの結果、捕虜の健康状態は「1945年10月」から急激に悪化、11月には内務人民委員部は「彼らを死なせないための」指示を出さざるを得なかったそうです。
 一説では、この冬に亡くなった日本人の数は約五万人余りで、抑留中の全死亡者数の8割近くになると言われています。その数の中に、前述の北見関係者も入っているのです。(続く)

《中庭だより》
☆6月7日、文藝春秋社の記者より電話で、平成15年に故・香川軍男氏の御遺族より当市へ寄贈のあった「戦時ポスター」について問い合わせがありました。全国的にも23点のポスターが揃っているところはなく、注目されたということで、あらためて香川氏御一家に感謝です。
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