ヌプンケシ99号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.99
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平成17年7月1日発行

◎シベリア抑留と北見市民(2)        kemur
◇ノルマと「暁に祈る」事件
 日常、仕事が一区切りして「今日のノルマ達成!」と言うことがありませんか。実はこの「ノルマ」という言葉は、シベリアから復員兵が日本に持ち込んだものだったのです。『広辞苑』によれば、もともとはラテン語・normaで「規範・標準・模範」の意味だそうで、「ソ連では労働者が一定時間内に遂行すべきものとして割り当てられる労働の基準量」とあります。
 捕虜=「囚人には自由人労務者と同じノルマ、つまりプロの土工、木こり、坑夫などの決められたノルマが適用された。囚人は強制的に作業に出されるが、たとえば、坑夫、教師、将校、塗装工、ジャーナリスト、オペラ歌手等を伐採へというようにたいていは彼らの労働熟練度とは合わないことが多い。その他彼らの物質的条件は自由人より悪いので、ノルマの遂行はさらに困難である。さらに30年代半ばからは10時間制労働日が、1941年から46年までは11.5時間制労働日が囚人に実施される。しかもノルマは増大する疲労度を考慮せずに比例的に増やされた。」(『ラーゲリ〈強制収容所〉註解事典』より)
 兵士の前歴や熟練度を全く考慮せずに、収容所監督者が一方的な計画で勝手に設定した仕事量=ノルマの出来高で、食物の配給量に差がつけられました。次にその例を見てみましょう。
 「雪深い森での伐採作業はいつも二人一組。ロシア式ノコギリで直径約一メートル、高さ十数メートルの松を
marutah
丸太の搬出作業に汗を流す。雪がまとわり重かった

倒し、四、五メートルの長さに切りそろえる。木の下敷きにならないよう、枝になぎ倒されないように、と神経をすり減らす。氷点下四〇度以下にならない限り休めなかった。/一日のノルマは約十立方メートル。達成量に応じて、黒パンの支給量が四五〇g、三百五十g、二百五十gとはっきり差別された。『四百五十gが欲しくて、みんな目の色が変わった』。/最低の二五〇gしか食えない者はどんどん衰弱し、ノルマがさらに重くのしかかる。そんな悪循環に陥った。」(『はるかなシベリア』より)
 当初、収容所当局はノルマを達成させるため、旧関東軍の秩序をそのまま残しました。将校は労働を免除され、宿舎も便所も一般兵士とは別で、特権を維持していたのです。将校はノルマ達成を督促し、「秩序を維持する」と称して、兵士たちへの私刑も黙認されました。
 私刑の実態が劇的に暴露されたのが、「暁に祈る」事件でした。これは外蒙古のウランバートル収容所で、抑留日本人隊長であった吉村久佳(憲兵の身分を隠した池田重善の偽名)が、ノルマを果たせない者を私刑で死なせたことが、昭和23年(1948)、シベリア復員者の証言で明らかになり、新聞報道された事件でした。その「暁に祈る」とは、食事を与えず、裸にして木に縛り付け、零下40度の屋外に放置するリンチのことでした。炎熱の夏には「熱砂の祈り」という私刑もあったそうです。この事件が報道されると、他の収容所でも同様な私刑が行われていたとの証言も多数出てきました。なお、池田は昭和24年4月に起訴され、昭和27年に懲役3年の判決がおり、服役後、冤罪を主張したまま昭和63年(1988)9月11日に死亡しました。
◇『日本新聞』と「民主化」
 大日本帝国が9月2日降伏条約に調印して間もなく、1945年9月7日付のソ連共産党中央委員会決定およびソ連陸海軍総政治局長命令で、9月15日にはハバーロフスクで「日本人俘虜のための新聞」=『日本新聞』が創刊され、1949年12月30日の最終662回まで、週3回発行されていました。この新聞発行の狙いは、97号に記したとおり、日本人捕虜の意識を親ソヴィエトに変えることにありました。責任編集者はウラジオストーク東洋大学日本語出身であったソ連共産党員で陸軍少佐(のち大佐)のイワン・イワーノヴィチ・コワレンコでした。
 「大元帥服で正装したスターリンの肖像と、一九四五年九月二日にスターリンがソ連国民に呼びかた演説ののっている九月十五日の『日本新聞』の創刊号だけは、ソ連側がレニングラードで用意したものだというが、第二号以後は全てハバーロフスクで日本人の参加をまって編集された。(後略)」「最初、タブロイド判の裏おもて二ページの新聞として発足したが、のちには四ページになった。部数は六〇万将兵の三人に一部ずつ行きわたるように二〇万部刷ったようである。」創刊当初は、戦後の困難な輸送事情で末端まで配布されず、また配布されても煙草の巻紙に使用される状態でありました。(高杉一郎著『征きて還りし兵の記憶』より)
 「そこで、捕虜の間で生れた、ソ連の生活や日本で起きている出来事や国際的事件に対する関心に一貫性と目的意識を与えるために、ソヴィエト司令部によって『友の会』と呼ばれる『日本新聞』の友達サークルをつくることが決められた。(後略)」「こうして新聞は捕虜の中に『民主化のアクチーブ』を、より正確に言えば、親ソ派のアクチーブを組織化する中心に据えられた。のちにこの運動はいわゆる『日本人捕虜の民主運動』の形をとった。」
 新聞編集者「コワレンコはサークルの任務について、『民主的思想の普及のために収容所内で啓蒙活動を広く展開すること、同時に軍国主義イデオロギーのいかなる発言や反動分子の陰謀と闘うこと』と新聞紙上で訴えていた。これらの任務を実現するために、新聞がサークルにすすめていたのは、収容所内で『日本新聞』の定期的な輪読会と読後の検討会を組織し、日本国内状況のいくつかの問題に関する新聞記事について話し合いや講義や演説を行い、収容所内の壁新聞の発行を指導し、演芸会を催し、記者網を広げ、新聞用の記事を集めることだった。」(以上『スターリンの捕虜たち』より)なお、「アクチーブ」とは活動家のことです。
 1946年後半になって、浅原正基(ペンネーム諸戸文夫)、相川春喜、高山秀夫などが中心になって編集が進められるようになり、日本国内の政治情報も掲載されるようになりますが、「編集がだんだん党派性をむきだしにして一党にかたよってゆき、『偉大な指導者スターリン』を筆頭に、片山潜、渡辺政之輔、市川正一、徳田球一、野坂参三、志賀義雄、国領俉一郎、岩田義道、野呂栄太郎、小林多喜二という順序で続く『われらの指導者』の賛歌を声高くうたいはじめたと記憶している。」(『征きて還りし兵の記憶』より)
 『スターリンの捕虜たち』を見ると、「一九四六〜四七年には日本将校は自分の支隊と兵士を服従させるのに成功していた。部下を無慈悲に扱った引用例が物語っているのは、そのために将校たちが尋常ならざる手立てをとるはめになったことである。しかし、こうした出来事にソヴィエトの政治工作員が気づかないはずはなかった。彼らは自分たちの目的にそれを利用することにした。『日本新聞』の記事で、日本人将校と彼らが維持していた秩序を権威失墜させる宣伝キャンペーンがはじまった。新聞用のネタが必要だったので、各地で連名の手紙や声明の形でつくられた。政治工作員は兵士の暮らしに関する話をじっくり聞いてからそうした手紙を書いたり、書くのを手伝ったりした。このことは手紙の文体からも容易の知ることができる。」とあり、『日本新聞』が民主化キャンペーンの道具になったことがわかります。(続く)

《中庭だより》
☆6月24・25日と私用で釧路に行ったついでに、釧路図書館で「釧路新聞」のマイクロフィルムを見てきました。当市には戦前の新聞がほとんどありませんから、野付牛支局のあった釧路新聞の記事は大変貴重で、色々発見があり、今後も機会あるごとに調査する考えでいます。
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