ヌプンケシ100号

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市史編さんニュース NO.100
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平成17年7月15日発行

◎シベリア抑留と北見市民(3)daihyoo
◇「ソ連地区引き揚げに関する米ソ暫定協定」
 いつ帰国できるかが、シベリアに抑留された方たちの最大の関心事でした。
 しかし、肝心の国民を保護すべき日本政府が、関東軍の軍人がシベリアに連行され強制労働をさせられているという情報をつかんだのは昭和20年(1945)11月頃だったそうです。その後、抑留が事実だと確信した政府は、昭和21年5月にアメリカを通じてソ連と交渉を開始し、同年11月27日、「ソ連地区引き揚げに関する米ソ暫定協定」が成立しました。
 右上の写真は、図説『満州国』(河出書房新社)に載っていた同年9月19日、東京で行われていたソ連代表部と米軍代表との会議の様子です。
 この暫定協定が成立するまでのソ連側の事情と経過を、前掲『スターリンの捕虜たち』は次のように記しています。
 「ポツダム合意の遵守と捕虜の日本への早期送還を要求するアメリカの執拗な態度」と「これに収容所内の苛酷な状況、とりわけ1945〜46年の冬における捕虜の高い死亡率という事実」が「ソヴィエト政府を本国送還の決定に押しやったのは疑いない。」また、「ソ連の対日接近と対日平和条約の締結という」政治的動機も後押しをしていた。
 「こうしてソヴィエト政府は1946年10月4日、決定NO.2235−921(秘)『日本人軍事捕虜と抑留民間人のソ連からの本国送還について』を採択し、I.スターリンが決定に署名した。まさにこのことで、スターリンが前年のみずからの決定の過ちを間接的に認めたも同然であった。
 日本人捕虜と抑留民間人の、ソ連からの本国送還の実施がソ連閣僚会議本国送還担当全権ゴリコフ大将に委ねられた。この任務の遂行にはあと八つの省が直接たずさわっていた。全権局は祖国へ送還される捕虜と民間人の本国送還収容所において、集合、登録、配置、給養を行うべく義務づけられていた。これらを『極東、沿海、ザバイカル・アムール、東シベリアの各軍管区の軍事会議とソ連軍後方司令官の助力を得て』行わねばならなかった。本国送還局は捕虜の送還を外務省、内務省、軍事力省と打ち合わせていた。極東の気候条件を考慮して、12月から3月まではソ連からの本国送還はしないことになっていた。/日本人の帰国は決められた地点と港を経由することになっていた。軍事力省は1946年10月までに、サハリンの真岡(現ホルムスク)港地区と沿海地方のナホトカ港地区に各6千人収容の通過収容所を一つずつ新設して収容するべく義務づけられていた。捕虜の乗せ換えに備えて、また『身体が弱っている』捕虜を給養し回復させるために、ザバイカル・アムール軍管区に通過収容所と同じ収容能力の集合収容所が一つずつ新設された。省の活動を中央と収容所で連繋させるために、軍管区内に本国送還部がつくられた。/ほかの省や関係官庁は本国送還用に、食事、『ひどい服を着て、履くものにもこと欠いた人のための携行に適した現物給与品』、医療衛生サービス、『収容所での日常必需品を売る』売店、輸送手段、資金を確保していた。」
◇送還開始
 本国送還局は「日本人送還問題に関する省代表者の二時間にわたる会議を1946年10月18日に開いた。副局長のゴルベフ将軍は予定の送還計画を出席者に説明した。ゴルベフ副局長によれば、約70万人の日本人を送還する必要があり、それを二段階で行うことになっていた。第一段階は1946年11月で、第二段階は1947年4月からである。/順調に収容所の準備が完了した場合、ナホトカ港からは11月の12〜15日、21〜23日、29日、12月3日に各6千人を、また真岡港からは11月の12〜15日、21〜23日に各5千人を日本に送還する予定だった。1947年4月1日までに、つまり第二段階がはじまるまでに、全部で約3万人を送還する予定だった。そのあとの送還ペースは、両港から月に2万〜2万5千人となっていた。」
 しかし、実際は「組織上の困難が生じたために、本国送還は予定されていた1946年11月ではなく12月にはじまった。最初の船が12月2、3、4日に真岡港、ナホトカ港、大連港に全部で8隻到着した。」12月5日、樺太からの引き揚げ第一船「雲仙丸」が凾館入港、12月8日にはナホトカからの引き揚げ第一船「大久丸」「恵山丸」が入港、「これらの船で第一陣の本国帰還者16,578人が送還された。」
 北朝鮮の元山、興南からの「帰還者第一陣は、四隻の船—『辰日丸』『永録丸』『大瑞丸』『栄豊丸』—で1946年12月14日から17日までの間に出航した。全部で12,673人が送還され、うち9,774人が捕虜だった。」
◇ソ連地区引き揚げに関する米ソ協定
 昭和21年(1946)12月19日、「東京でデレヴャンコ中将と日本における連合国軍最高司令官代表ポール・J・ミューラー中将が、ソ連領とのその支配下にある地域からの日本人捕虜と民間人の本国送還問題に関する協定に署名した。協定では、日本人捕虜と民間人はソ連領とその支配下のある地域から本国送還されなければならない、と記されていた。日本市民はソ連領から自由意志の原則に基づいて帰還することが特にただし書きされていた。送還する予定の港にはナホトカ、真岡、元山、咸興[実際は隣接する興南港]、大連が指定されていた。本国送還のペースは、帰還者の区分にかかわらず5港から毎月5万人と決められていた。また、不測の事態が起きた場合は送還を一時中止するか、出発港を代える、としていた。」なお、ここにある「不測の事態」とは政治的な問題ではなく、冬季の結氷など、帰還者を港まで運送するのに困難な気候条件の問題であった、と著者カルポフは説明しています。
 費用負担については、「日本人捕虜と民間人の、ソ連領とその支配下にある地域からの本国送還にかかわる全費用は日本政府が負担する」とされていた、とあります。勝手にソ連領内に拉致しておいて、送還費用は日本持ちというのは納得できませんが、人質をとられているような状態では、文句も言えなかったのでしょう。
 帰還者の財産上の権利で、「協定が許可していたのは、送還する日本人捕虜には手荷物の範囲の個人の所持品を、また日本の民間人には一人100キログラムまで、個人の所持品や財産を持ち帰ることだった。」また「一人当たり、将校は500円、兵士は200円、民間人は千円までの円貨の持ち帰りが許され、また日本の金融機関により発行され日本で支払い可能な郵便貯金通帳、銀行通帳、その他の個人名入り証書の持ち帰りが許されていた。」
 大晦日に南サハリンの日本人住民が送還され、昭和21年分の送還が終わりました。「1946年の帰還者総数は、わずか一ヵ月間、12月だけだったけれども、ソ連とその支配下の地区から、42,989人が送還され、うち27,173人が捕虜だった。」
◇帰国目当ての「運動」も
 現実に帰国できる可能性が出てきたことで、抑留者も明日に希望を持てるようになりました。そうなると、一方では誰よりも先に送還リストに載るために、収容所当局に認められるような民主運動の活動分子になることが一番と考え、それまで「民主化」に関心のなかった者も政治学習会に積極的に参加してくるようになりました。
 そうした「活動分子」を含めて「民主運動」は、収容所内で特権を得ていた将校達と階級制度に矛先が向けられた反動闘争に発展、ソ連への忠誠の度合いで個人が評価されるようになり、少しでも反ソ的な言動があれば、密告され、その個人を一方的に「ファシスト」と決めつけ、「人民裁判」で吊し上げました。また、多くの抑留された人々も、彼らが指導する「運動」に参加することが、一日でも早く帰国できる条件と思い込み、隊伍を組んで労働歌をうたい、赤旗を掲げて行進したり、最後にはスターリンに感謝を捧げる運動も出現しました。それらは年々加熱し、一種の熱病みたいになったことは、多くのシベリア抑留体験記に記されています。
◇北朝鮮・遼東半島の送還は昭和22年に完了したのに…
 昭和22年(1947)の4月1日までに、ソ連軍が支配していた北朝鮮、中国の遼東半島からの日本人送還は完了しました。その実数は「合計で245,480人が本国送還され、うち210,621人が民間人で34,859人が捕虜だった。(中略)上記の数のうち北朝鮮からの日本人帰還者は、民間人が5,472人、捕虜が22,403人だった。遼東半島地域から送還されたのは217,575人で、うち205,119人が民間人で12,456人が捕虜だった。」(民間人合計が30人合わないのは、原資料のままだそうです。−引用者)
 それに比べて、シベリアからの送還は遅々として進まず、当初の計画どおりに1947年で残り全ての捕虜を送還することはされませんでした。前年は大晦日まで送還していたのに、同年12月1日には、ソ連からの日本人送還は「航行打ち切りのせいで」中止されました。結果として、「70,755人が自分の順番を待ちながらサハリンに」残されました。
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祖国へ! 引き揚げ船への乗船風景

 こうした遅滞の原因は、ロシア「東部地区のソヴィエト経済が多くの点で捕虜と日本の民間人の労働に依存していたということだ。」とされています。つまり、接収した工場の機械を動かすにもソ連側に技術者が育っておらず、また労働力もなかったということのようです。開拓地シベリアの鉄道・港湾・都市建設などの基盤整備にも捕虜は欠かせない労働力であったのです。そのような生産にかかわるソ連政府内部機関・部署が、急速な日本人の送還に反対したのでした。
 『スターリンの捕虜たち』の原文が悪いのか必ずしも明確な数字の説明ではありませんが、「本国送還機関の資料では1946年12月から1947年12月29日までにこれらの港(ナホトカ・真岡—引用者)から368,526人の帰還者が送り出され、うち捕虜は199,281人だった。」民間人は差し引き、169,245人でした。
◇昭和23年には
 昭和23年はどうだったのでしょうか。「1948年の春、ソ連領にはまだ256,000人の捕虜と106,500人の南サハリン住民がいた。」ソヴィエト政府は、4月、樺太の「南サハリン在住の全ての日本の民間人を1948年に本国送還させること」を決定しました。
 送還から除外される対象者も次のように決定されました。(1)日本の諜報、防諜、懲罰機関員、(2)スパイ破壊工作学校の指導教官と生徒、(3)細菌戦部隊「七三一部隊」関係者、(4)ソ連に対する軍事攻撃を計画立案した将官や将校、(5)満州国協和会指導者、(6)収容所内反ソ組織やグループの指導者と活動家、(7)満州国政府関係者・大日本帝国政府機関員
 これらに該当する捕虜を5月1日までに摘発する作業が、各収容所に設置された委員会に義務付けられました。これも送還延期の原因の一つになったようです。この摘発作業は、日本人同士を激しく反目させる大きな原因ともなりました。除外対象となった者たちは、これで一生日本の土は踏めない、と絶望したことは想像に難くありません。
 これらの対象者以外でも、収容所内の犯罪で有罪判決を受けた者も刑期満了まで残されましたし、帰還輸送にたえない重病人も回復するまで残されました。
 加えて、ソヴィエト経済に必要な炭鉱や、汽船会社、水産加工場などで労働していた抑留者たちは、抑留最後まで残される「運命」にありました。
 「閣僚会議本国送還局の資料によれば、1948年の活動で日本に送還されたのは286,746人で、うち175,103人が捕虜、106,713人が南サハリン住民、4,930人が遼東半島の民間人だった。これにさらに北朝鮮地域からの民間人1,283人とソ連領からの抑留日本人1,944人を加える必要がある。総数は289,973人である。」
 この年で「捕虜と民間人の主な集団が日本に送還された」と著者カルポフは見ています。
 南サハリン(樺太)は全ての日本人を送還することになっていましたが、接収した財産保全のために最小限必要な民間人が引き止められ、翌年、昭和24年6〜7月、「南サハリンから日本へ4,706人の民間人が送還された。彼らを送還したあと、島には943人が残留した。内訳はソ連残留を希望した人469人、16歳未満の子ども187人、弾圧された日本人287人だった。」
◇本国送還の最終段階(1949年)
 「1948年の本国送還のあと、内務省収容所に捕虜91,563人」が残留していた。「ソ連邦閣僚会議は2月、捕虜がソヴィエトの産業にとってもう特別な利益をもたらさないし、それにもうやめるべき時だ、と考えて1949年中に完全に本国送還をする決定をした。」ただし「ソ連に対して犯した犯罪で有罪判決を受けた捕虜だけは残留させることになっていたのだ。」
 「日本人捕虜の在留の初期には、産業省側からの、労働力としての捕虜への関心が強く感じられたが、最終段階ではそうした関心は感じられなかった。この時期に捕虜の本国送還をもう一年遅らせる理由になったのが政治的課題—捕虜の中から日本に着いたら日本共産党員になる共産主義者を養成すること—であった。そのうえ、共産主義思想に賛同しない者たちは隔離することになっていた。」
 この時期の収容所で「第一位に躍り出たのが捕虜の政治的教化という課題である。教化の過程で捕虜の労働の質と量に影響を与えようとした。こうして、この二つの過程—政治的教化と労働生産性の向上—は相互に結びついた。いまや、収容所の民主運動への献身を熱心な仕事ぶりによって証明する必要があったのだ。」
 こうした運動は熱狂的な様相を示し、1949年5月26日、地方反ファシスト大会5日目、「スターリン大元帥への感謝文運動」が、労働強化の運動と組み合わせて、正式に決定されました。9月3日には「感謝文署名運動委員会」名で感謝文が発表され、これに64,334名の署名が添えられました。感謝文は長文で紹介できませんが、現実との大きな較差にあぜんとさせられるような、歯の浮くようなスターリン独裁下の収容所賛美の言葉で埋め尽くされています。
 こうした「政治教育」の結果、昭和24年の引揚者の中には、赤旗をかかげて舞鶴に入港し、まっすぐ日本共産党主催の歓迎会に出席したり、集団入党したりする者が続出しました。
 昭和24年「12月31日、ゴリコフ(送還)局長はモロトフあてに、この年、捕虜を87,416人、全体では93,858人を送還したと書いた。」そうです。
 昭和25年4月21日のタス通信は、送還510,409人、残留2,467人、中国送還971人でソ連からの日本人送還は終了した、と発表しましたが、日本側の統計では帰還者は470,356人で大きな隔たりがありました。実際のところ、シベリア抑留者の帰還は、昭和31年(1956)12月26日に最後の引き揚げ船「興安丸」が舞鶴に入港するまで細々と続きました。(続く)

《中庭だより》
☆このニュースも平成13年5月17日創刊から、今号で100号になりました。今後も、もっと皆様に読まれるニュースを発行していきたい、と思っております。応援をお願いいたします。
☆7月12日、「文藝春秋」田中裕士編集部次長が、平成15年に薯版画家=香川軍男氏ご遺族から当市に寄贈された「戦時ポスター」を取材に、北網圏北見文化センターへこられました。
来月の「文藝春秋」に、当市の「戦時ポスター」がいかに紹介されるか、今から楽しみです。
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