ヌプンケシ102号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.102
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平成17年8月15日発行

《中庭だより》
☆7月、オホーツク文化の会から『わたしの八月十五日』が、8月15日付で北見叢書刊行会から『語りつぐ戦争体験』が出版されました。これらを読むと、戦後60年、日本の歴史を見つめ直し、貴重な体験・証言を記録し、未来に語り継ぐ責任がわれわれ戦後世代にはあるようです。

◎シベリア抑留と北見市民(5)horyo1
◇清水豊吉著『俘虜追想記』
 今回は北見市民のシベリア抑留体験記を取り上げてみたいと思います。
 実際のところ、北見市民が体験をまとめて記録したものは、(筆者が知らないだけで本当はまだたくさんあるのかもしれませんが、)清水豊吉氏が書かれた『俘虜追想記』しか読んだことがありません。
 残念なことに清水氏は昨年、平成16年11月29日にお亡くなりになりました。享年96歳でした。奥様は当市箏曲宮城社の重鎮=清水文子さんであり、その演奏会にはいつも清水氏の姿があり、見るからに温厚で上品な老紳士でありました。氏の略歴を、次に記しておきます。
 氏は明治41年(1908)2月27日、北海道札幌郡江別村に生まれ、渚滑村で育ち、昭和3年(1928)、旭川師範学校卒業後、端野村等で勤務。昭和15年(1940)関東局在満教務部に出向、満州国牡丹江市にあった円明小学校を経て、牡丹江高等女学校に勤務。昭和20年(1945)8月、現地召集、シベリア抑留。昭和23年(1948)に帰還、その後、北見市立光西中学校に、昭和43年(1968)に退職されるまで勤務されておりましたから、50歳以上の光西中卒業生はよくご存じでしょう。
 なお、この『俘虜追想記』は、昭和52年から『文芸北見』に3回連載された文章に加筆され、昭和55年(1980)10月、北見文化連盟を発行所として自費出版されたものです。
◇日ソ開戦時の現地守備隊の実態
 8月8日にソ連は宣戦を布告し、9日0時、満州に侵攻してきたのですが、その事実は一般庶民にすぐには知らされず、清水氏もラジオ放送や隣組のお知らせでなく、避難民や風聞で知ったと書いています。そのことが民間人の戦地脱出を遅らせ、被害を大きなものにしました。
 清水氏は、11日、牡丹江兵事部から夜11時、「牡丹江守備隊に入隊せよ」との電話命令を受け、12日、入隊となったのですが、集められた兵士150名は45歳近い老兵もいる、ゲートルの巻き方も知らない、銃の取扱いも分からないといった状態で、清水氏自身も37歳でした。しかも、与えられた銃はゲリラからの押収品で、弾丸の支給もない有様でした。その任務は住民の避難誘導、撤退部隊の支援、木橋破壊、陣地構築などでした。その木橋を破壊する爆薬もなく、スコップなど人力で実行するようにとの命令でありました。この守備隊には最初から交戦能力などなかったのです。このことからも、関東軍の精鋭部隊、武器はすでに南方戦線に投入され、肝心の防衛部隊・装備は底をついていたことがわかります。この守備隊は8月15日の戦争終結も知らず、19日「日ソ停戦協定を確認した」ということで牡丹江にもどり、なす術もなくソ連兵に包囲、武装解除され、捕虜となりました。こうして一週間前まで、教員や書店員であった一般民間人が、急に兵士に仕立てられ、シベリアに抑留されることになったのでした。
◇清水氏が見た「生き地獄」
 清水氏は9月中旬、シベリア、ウスリーの強制収容所に送られました。営舎はコルホーズの豚飼育舎を、収容される者たち自身の手で木製2段式寝台を設置するなど改造したしろもので、壁や屋根の隙間から極寒の冷気が容赦なく入ってきました。その上、服装は「武装解除を受けた日の夏軍服に外套を重ねたのみ、寒さに全く無防備の状態に放置された」ままでした。
 しかも、食事は一人当たりピースの煙草箱2箇分の大きさの黒パンと、スープとは言えないビートが三きれほど浮かぶ塩汁でした。収容所外に作業に出た時、餓鬼のように道端に落ちている食えそうな野菜クズ、冬眠中の青蛙、牛糞の堆肥にうごめくミミズ、何でも口にしました。白樺の樹液もすすりました。生き残って愛する家族に会うために、「おれは腐った肉でも食うぞッ。みみずは生きてる肉だッー」と捕虜仲間は自分自身に言い聞かせていたそうです。
 十分な栄養も与えられず、体力のない状態で、ソホーズやコルホーズの倉庫での大豆60キロ入り麻袋の運搬作業、石炭搬入作業、軍馬用飼料の洋草刈りなどの重労働を強制されました。作業に立ち会う警戒兵が、些細なことで捕虜仲間を射殺した場面も直近で目撃しました。
 「寒さと飢と重労働は、三者たがいに相関しながら、厳冬に至ってたちまち栄養失調症を続発させていくのであった。」清水氏は栄養失調などで仲間が次第に死んでいく様子を幾例もリアルに記述し、「栄養失調症の昂進による静穏な死は、まず三半規管に作用する平衡神経の失調にはじまり、運動神経、皮膚に分布する抹消神経に及んで消化管神経へとつぎつぎに枯れ、ついには、意志、意識まで枯れ果てて、体は植物と化し、いつかの時点で体細胞が枯れ尽き、命が消えてしまう死にざまと思われる。植物の枯死さながら、と言えまいか。」と書かれています。
 「終戦第一年の越冬中、栄養失調症により身罷るもの二十四名、さしての理由なく射殺の非命に倒れるもの四名、犠牲者は二十八名を数えたではないか。百五十名のうちの二十八名なのである。」筆者が読んだ幾つかの抑留記の中でも、収容者の約18.7%が死んだ、清水氏が初めてのシベリアの冬を過ごした収容所は、あらゆる面で最悪の部類であったと断言できます。
◇ロシアの民衆の魂にふれて
 「私は越冬中、多くの仲間と共に重症と思われる栄養失調症に陥り、二十一年四月、周辺から集合させられた二百六十名の病弱者部隊に編入せられ、斑雪(はだれ)に荒む沿海州ウスリーから、ほぼ二十五日を要し、一万粁を越して隔たるであろうウズベク共和国へ貨車輸送されたのである。」地獄のシベリアから、温暖なウズベク共和国の首都タシケントに所在する第十四作業大隊に収容されたことで、清水氏は命拾いしました。収容所長もモスクワ大学工学部教授出身で、「諸君は東条の犠牲になった気の毒な捕虜である」と一定の理解を示し、捕虜の処遇にも配慮がなされていました。数学教師であった清水氏は、任官試験受けようとするユダヤ系軍曹の相談相手になり、ソ連内部の実情も少しずつ知ることができるようになりました。
 清水氏が印象深く書いているのは、街路舗装作業監督のスターリク・ザマトフ(ザマトフ爺さん)です。彼の父は日露戦争で捕虜になり、日本で厚遇されたことを彼に話していました。父はその後、将軍になりましたが、革命の過程で処刑され、彼と妻はタシケントへ流されてきたのでした。ザマトフは片言の日本語を発し、日本人捕虜にやさしく接しました。ある日、作業現場に侵入してきた軍用ジープを「ヤポンのノルマがめちゃくちゃなる」と身を挺して追い返し、収容所送りになったのか、その翌日から姿が見えなくなりました。このザマトフとの出会いは2週間にすぎませんでしたが、清水氏に人間への信頼を回復させる出来事となりました。
 『俘虜追想記』には、他に「ひげマダム」など数々のエピソードが書かれておりますが、限られたこの紙面ではとても紹介しきれませんので、図書館で借りて、ぜひお読みください。
 清水氏は戦争体験を総括し、次の言葉を遺されています。厳粛に受け止めたいと思います。
「いかなる指導者にも、イデオロギーのために人を奴隷する非道が許されてはならない。
 いかなる人も、イデオロギーのために、強いられて献身する犠牲者となってはならない。」

《中庭だより》
☆7月、オホーツク文化の会から『わたしの八月十五日』が、8月15日付で北見叢書刊行会から『語りつぐ戦争体験』が出版されました。これらを読むと、戦後60年、日本の歴史を見つめ直し、貴重な体験・証言を記録し、未来に語り継ぐ責任がわれわれ戦後世代にはあるようです。
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