ヌプンケシ104号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.104
title
平成17年9月15日発行

◎シベリア抑留と北見市民(7) 

 今号は『語られざる真実』から、菅季治の人柄について触れて見たいと思います。
◇軍隊向きではなかった菅季治
 「1944年3月から7月までの帯広での候補生生活と、7、8月から翌1945年1月までの千葉の陸軍高射砲学校での候補生生活でわたしの魂はひどく乾き荒んだ。それまで貧弱ながら養い育てて来た自分の『精神生活』がちぎられ、ぶん投げられ、後には、ささくれだった茎だけが乾いたまま残っていた。わたしは元来、実際の事柄については、無知無能だった。衣服の整頓にしても、軍事学科のノート整理にしても、ひどく拙劣だった。術科における要領の悪さにはとくに恥ずかしい思いをした。そしてわたしは、孤独で戦友が全くなかった。わたしは『生きた屍』みたいだった。高射砲学校を卒業する時、教官がわたしに言った、『わしはおまえがもっと優秀になるだろうと思ったがだめだった。おまえは軍隊に向かん。しかし、軍隊を好きになるよう心がけろ。』/1945年1月わたしは高射砲学校を卒業し、見習士官になった。関東軍に配属された。北海道のふるさとに二日ほど滞在した後、わたしは満州へ行った。」
◇死を目前に
 菅は、満州は鞍山の野戦照空第一大隊へ着任。もうそこでも「日本帝国の敗北の見こみが誰の心にも重たくかかってきた。」菅の上官である、中隊長も兵隊たちに「日本が敗けたらおまえたちはどうするか?」などと質問する状態でした。
 「わたしはまじめに自分の死について考えてみた。(中略)そして、次のような結論を得た。自分は凡人である、社会を変革したり、歴史の大波を押し返したりすることはできない。そうだとすれば、わたしの生涯で良い事としては、日常の小さな善行の総和以外にない。だから、もうすぐ死ぬ者として、死ぬまでの短い期間にできるだけ多くの日常的善行を積まなければならない。」菅はこう考えて、行動をおこしました。

hango まず私的制裁=リンチを禁止しました。初年兵に「私的制裁の事実があったらすぐ自分の所に知らせろ。」といい、「下士官や古年次兵は大いに不満だった。『なぐられない兵隊は強くならない』という信条が彼らを支配していたのである。わたし自身は軍隊で人をなぐったことはない。」
 「見習士官は官物の被服をもらう。兵隊のと同じ型だがもちろん新しく、軍隊用語で『程度のいい』品物である。わたしは、朝鮮人の中でも最も悪い被服を着ている者を呼び寄せる。上衣の悪い者には自分の上衣を、ズボンの悪い者には自分のズボンを、シャツの悪い者には自分のシャツを与える。そしてわたしは、彼らの悪い上衣、悪いズボン、悪いシャツを身につける。自分にあるだけの布ぎれを修理材料として与える。同僚の見習士官はいやな顔をする。わたしだってこんな行為は、前には偽善的に感じたろうけれど、その時は、死の近づきがわたしを勇気づけたのである。」また、兵士に不満や希望を無記名で書かせ、解決できることは直ぐに実行しました。「わたしという見習士官は、中隊で、ひどい変り者と評判されるようになった。」
◇敗戦の日
 『8月10日ごろだったろうか。わたしたちの部隊は、鞍山から奉天へ集結を命ぜられた。ソ同盟が宣戦布告したためである。照空隊の各分隊にはおのおの一台ずつ、発電自動車という大きな自動車をもっている。これに兵器人員その他最小限の必要物を積んで行軍するのである。(中略)道ばたで一夜寝て次の日の昼頃わたしは、奉天についた。すぐに各分隊は陣地に向かい、通信班は電話線を張る。雨降りの中を徹夜でやった。中隊本部は、はじめ満軍飛行隊の近くに置かれたが、次の日、植物園のそばの牧場に移された。そこは、一面の木々、緑々だった。
 わたしは自分の死場所がこんなに美しくて幸せだと思った。ところで各分隊の陣地も一おう落ち着いたのだが、かんじんの部隊本部からの命令がはっきりしない。はじめは戦闘準備の完了が促された。『肉薄攻撃』の講習のため将校下士官の集合が命じられた。その中、だんだん消極的になり、戦闘は待機せよ、ソ連機が来襲しても応戦するな、ということになった。8月15日、わたしは牧場の牛舎に牛を見に行った。まもなく中隊のA曹長が急いでやって来て、停戦を知らせてくれた。わたしはしばらくぼんやり牛の顔をながめていた。」
 夜「将校は建物の中で酒盛をやっていた。兵隊は、広場の天幕の中にいた。わたしは兵隊を訪れた。天幕の中でつつましく食事をしている彼らを見た時、ふいにわたしは泣き出した。愚かで非人道的な支配者たちにもてあそばれてさんざんむごい目にあわされながら、自分たちの運命の不安さえ洩らさないで、はんごうのふたに飯を分け合っている彼ら——お人よしで働き者の人民大衆。『こんないい人間たちをこんないい人間たちを』とわたしは涙声で言った。わたしは将校たちが酒盛している所に行った。そして、大隊本部の副官に『酒をくれませんか、兵隊にやりたいんです。』と言った。彼は、わたしに、『おまえは、どこで誰に向ってそんなことを言うのか知っているか?』と冷たく言い放った。わたしはまた兵隊たちの所へ行った。」
◇ソ連へ
 菅の部隊は奉天で武装解除され、郊外に移され、9月はじめ、奉天市内にあった東北大学に集結させられ、他の部隊とあわせて、千名単位でまとめられました。
 「東北大学にいたのは二カ月ぐらいだったろうか。わたしたちの新しい部隊は、ソ連軍によって第二五大隊と名づけられた。この第二五大隊1000名と第二六大隊の500名とが一緒になって、輸送されることになった。どこへ?——日本へか、ソ連へか? それは部隊長もその他の誰も知らなかった。ただ日本へ帰りたい、という気もちは、みんなあった。東北大学から皇姑屯という駅まで歩いて行くことになった。銃をもったソ連兵が両側につき添って行くのだった。い良いよ1500名がまとまって、ソ連側と関係するようになったので、この部隊の通訳が必要になった。わたしたちの部隊には、ハルビン学院や外国語学校を出た優秀な通訳はいなかった。満州でロシア語の初歩を覚えていたN一等兵やK上等兵が選ばれた。ところが彼らは、責任の重大さを考慮して、わたしに援助を求めてきた。(中略)NやKがわたしに協力を求めた時、わたしはアズブカも忘れていたし、一、二、三、も覚えていなかった。しかし、わたしはNやKに同情した。ことに新しい部隊長の少佐は、やかましい人だった。見習士官であるわたしがそばにいれば、一兵卒のNやKもいくらか心強いにちがいない。わたしは、心を決して、1500人の行列の先頭に立った。これがわたしのそれ以後の生活を——ただソ連での俘虜生活だけでなく、おそらくは、死ぬまでの生活を、方向づけたのだった。」
 「奉天で列車に乗りこむ時、わたしのロシア語の知識はほとんどゼロだった。ところが列車が動き出してからN一等兵もK上等兵も通訳の役目からしりぞいた。わたしが1500人の日本人とソ連軍との唯一の仲だちになった。責任感がいっぱいだった。」猛烈にロシア語を習得し、ある駅で腕時計と「露和辞典」を交換、入手して、通訳が何とかできるようになりました。

《中庭だより》
☆8月31日、富山市に住む島田久氏より、道新の特集、昭和40年(1965)7月20日から27回連載「きたみ六十八町」と、昭和41年7月12日から32回連載「きたみ70年」の切り抜きの寄贈がありました。初めて知る情報もあり、感謝です。なお、複製を図書館に配布しました。
よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館