ヌプンケシ105号

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市史編さんニュース NO.105
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平成17年10月1日発行

karaganシベリア抑留と北見市民(8)

◇中央アジア、カラガンダへ
 1945年10月半ば、菅季治の部隊は「アムール河を渡ってブラゴエシチェンスクに」着き、ここで数日間テント生活をした後、また列車に乗せられました。
 「わたしたちの行先は最後まで分らなかった。列車が完全に西に向うまでは、多くの日本人は、ウラジオストークから帰してもらえるかもしれない、という望みを捨てきれなかった。西に向ってから後も、ひょっとしてどこかから東へ引き返しやしないか、などと言い出す者がいた。しかし、汽車は西へ、西へ進む。どこへかは、ソ連兵はどうしても言わない。
 中央アジア、カラガンダ。ここでソ連側から下車命令が出された。『どうしてこんな所で下ろすんだろう。』『何か検査でもするのかな?』人々はいぶしがった。ところがここが目的だった。
 附近の広場で、わたしたちの第二五大隊一〇〇〇名は第二六大隊五〇〇人と別れた。すでに大地は雪におおわれていた。はてしない野原。木も草も見えない。所々に、ピラミッドのようなボタ山がそびえ、低い泥かぶせた屋根の家が散らばっている。わたしたちは風に吹かれながら歩き出した。一〇粁以上もあったろうか。広大な面積を取りまく鉄線と板べいにたどりついた。そこが、わたしたちの収容所だった。板べいに沿うた所々に望楼があり、銃をもったソ連兵が立っている。人々は何とはなしに溜息をついた。中にはこんなことを言う者もいた。『ドイツ人の捕虜は一年だけど、日本人の捕虜は三カ月かせいぜい半年で帰すそうだよ。』しかし、この収容所での生活はそんなに短くなかった。いくつかの生命がほろび、いくつかの魂が狂い、多くの青春が朽ちもするほど長かった。また少なからぬ者がその世界観、人生観を変えたほどにも複雑な年月だった。」このカラガンダに着いた日は、1945年11月5日だったそうです。
◇カラガンダとはどんな所?

tizu 右地図は平澤是曠著『哲学者菅季治』から転載したものですが、カラガンダが日本からもシベリアからも遠い、中央アジアのカザフスタンにあることが理解されるでしょう。一般に「シベリア抑留」というと、地理的にシベリアだけと地域が限定されるイメージがありますが、実はソ連国内のラーゲリのある、至る所で日本人も強制労働をさせられていたのです。
 実際にカラガンダに行った澤地久枝さんの『私のシベリア物語』によれば、「この町の中心は石炭であり、一九三四年以降炭鉱ができたが、それ以前は農村だった」、1987年「現在、市内の人口は六十万人。カラガンダとは、カザフ語で『黄色いアカシアの花の咲く地』という意味であるという。」「カラガンダにあった日本人収容所は約十ヵ所と菅季治は書いている。冬の零下四十度もすさまじいが、夏の摂氏四十度は、ステップの草を灼き、枯れつくすほどという。」
 菅が収容所「第99収容所第11分所」に着いた時のカラガンダは、炭鉱ができて11年あまりの新興開拓地だったのです。「わたしたちの収容所の受持作業は、煉瓦工場の粘土掘り、貨車やトラックへの煉瓦積み、鉄工所、製材所、住宅建築などだった。一日八時間の作業、煉瓦工場の粘土掘りや製材所の一部の作業には、夜間作業(二交代ないし三交代制)が行われた。」
◇多忙を極めた通訳
 「わたしは、通訳としてひじょうに忙しかった。約一、○○○人の日本人の新しい収容所生活を軌道にのせるために、わたしはあらゆる部門に頭と口をつっこんだ。——作業のこと、起居のこと、メニューの作成、病人の始末など日常の事以外に、いろいろ不時の事件が起った、——作業場でのケガ、けんか、どろぼう、逃亡など。わたしは、収容所の庭を走りまわった。わたしのロシア語の知識ははなはだ乏しかった。しかも通訳の仕事は非常に重大だった。一語一語に一、○○○人の生活がかかっていた。わたしは露和辞典と、自分でつくった単語帖をズックの袋に入れて、いつも自分から離さなかった。通訳している時にも時々辞典を引き出した。収容所の職員がひじょうに怒ってののしる時、そのののしりの語がわからないと言って、辞典を引くこともあった。それで職員の方も気抜するのだった。」
◇将校による「私的制裁」
 『日本新聞』が配布され、将校の特権を剥奪し、幹部の地位から追い出す「反軍闘争」が呼びかけられましたが、この収容所では「このような『民主運動』が他の地方と比べてはなはだ遅れていた。それは、部隊長の少佐がきびしかったせいもあり、また一般に兵隊がおとなしかったせいもあるだろう。わたしたちの部隊は、防空兵であり、まとまっていた。約二年間、朝夕の点呼のさいには、『五箇條奉唱』『宮城遥拝』が行われた。部隊長はしばしば『敬礼の厳正』を要求した。/将校たちは、部隊長を恐れ、彼の方針に従った。ウオエンノプレンニク(=捕虜—引用者)生活以前と同じように、将校は兵隊に『私的制裁』を加えた。将校は兵隊をののしり、なぐった。作業場で、兵隊がふるえながら土を掘っている時、将校は事務所のペーチカにあたりながら、『ヘイタイさんは、セワやかせるなあ』などとしゃべっていた。収容所内では、将校は、『将校当番』に食事を運ばせ、洗濯掃除をさせた。/ちょっとした事で兵隊に『絶食』の罰を課し、その食事を自分で食った将校もいる。/兵隊の腕時計を『保管する』と言って引き上げて、それを売りとばした将校もいる。/食事の『お代り』(そんなものが一般ウオエンノプレンニクにあり得るはずがなかった)を食堂の当番に要求し、ことわられたというのでその当番をさんざんなぐった将校もいる。/こういう事件もあった。或る兵隊が豚の餌を盗みに行って、収容所職員に知られた。部隊長と中隊長とは、その処罰を引き受けた。彼らは、その兵隊を浴場へ連れて行った。ふろ桶に水と雪とを入れた。それを彼らは『アイスクリーム』と呼んだ。その『アイスクリーム』で彼らは、その兵隊の身体全体を丁寧になでまわした。その後、その兵隊を営倉に入れ、食事をろくに与えなかった。数日後、彼は栄養失調で死んだ。」
 戦時中から「私的制裁」に反対していた菅には、これら将校たちの行為は目に余るもので、「収容所における軍隊機構改革の必要を感じた。」ものの、菅自身も将校の一人であり、「どうしていいかわからなかった。わたしは、自分だけ階級章を着けず、『五箇條』を唱えなかった。わたしに敬礼する兵隊に『なぜ敬礼するんだ?』と問うた。」と記しています。

《中庭だより》
☆9月22日午後6時半、市民会館1号室で、北見出身の室蘭捕虜収容所長で戦後B級戦犯として処刑された平手嘉一氏を題材にした紙芝居のスライド上映と、室蘭で歴史掘り起こしをされている三浦幸夫氏の講演があり、出席してきました。室蘭では戦争体験を紙芝居にしたものが8作になるそうです。平手氏のご遺族、ご高齢のお兄様、妹さんも同席されていました。
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