ヌプンケシ106号

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市史編さんニュース NO.106
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平成17年10月15日発行

シベリア抑留と北見市民(9)
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◇菅の天皇制批評と捕虜の反発
 抑留されて2年あまり、菅のいた収容所でも自然発生的に、一般兵士たちは将校の命令に服従しなくなったものの、まだ組織的なものではありませんでした。
 「1947年夏ごろ——そのころには、おくれていたカラガンダの収容所でも『民主運動』が展開されかけていた。わたしの第11分所では、日本人自身の間には、自発的な運動は見られなかった。収容所の政治部員は、あせっていた。『この分所で民主運動が不活発なのは、部隊長のせいではないか。もしそうだったら,部隊長を他所へ移す』ということをわたしに洩らした。(中略)それで、わたしは,部隊長に政治部員の意図を伝えた。部隊長は驚いた。そして取りあえず、『政治経済研究会』というものをつくって、会員を集め、その会員を『民主主義者』として、収容所側につけ出すことにした。この会の指導者となることを、部隊長はわたしにまかせた。わたしは、とにかく一週に一回何か話しましょう、と約束した。1947年7月のことだった。わたしは、一週に一度夕食後、食堂で『話しの会』を開いた。題は『世の中の移り行き』と『世の中のくみたて』——『誰でも聞きに来たまえ』と書いた小さな板片を食堂の入口にぶらさげた。全部で5回だったと思う。各回100人—150人の聞き手があった。これらの話の中で、わたしは将校の横暴を抑えるつもりで、日本人の生活意識における封建的要素と、明治維新後の天皇制を批評した。これは、センセイションをまきおこした。『カンを殺せ』という声もあった。『カンの話は或はホントかもしれん』という声もあった。しかし、前者の方がはるかに多かった。そのころ『日本新聞』でも天皇制が批評されていたが、わたしたちの収容所ではほとんど問題にならなかった。/わたしの話は、常識的でわかり易かったし、何しろ自分たちの収容所にも天皇制を公然と批評する者がいるという事実が一般の者にショックを与えたのだろう。/かげでいろいろのうわさがあったらしいけれども、わたしの『通訳』という地位が、わたしを安全に守った。わたしは直接暴行を受けなかった。部隊長は、この時わたしを見直したようだった。」
 当時の収容所仲間が書いた追悼文集『想い出のカラカンダ 菅さんを偲ぶ』に、この会の途中、菅に対して石を投げた者がいたとあります。菅が個人の考えを述べただけで、このような過剰な反応がでるほど、当時の捕虜達にとっては、まだ天皇を中心とする日本の国家体制=「天皇制」は触れてはいけない、批判してはいけないタブーだったのが分かると思います。
 その時、菅が具体的にどんな話をしたかは不明ですが、昭和25年(1950)、国会に召喚された時、「天皇制反対といっても、別に実践活動をやるつもりではなくて、昔は神様といってわれわれを死地に追い込み、1947年の正月ですか、神様でないというようなことを言う、それに対しては私は反感を持っています。」と証言していますから、将校達の横暴に絡めて、天皇とその権威を拠り所とした軍隊・官僚支配など、民衆を死地に追いやった国家体制の問題を提起したものと思われます。菅は自分の意見を表明するにも、命をかける状況だったのです。
◇政治活動向きではなかった菅季治
 2ヶ月たっても、菅の収容所の「民主運動」は活発になりませんでした。「政治部員はわたしを責めた。『おまえは民主運動を発展させないで、かえって妨害する。おまえは、政治活動をやる気があるのか、ないのか?』わたしは答えた。『わたしは政治活動に不適であり、無能であることがわかった。わたしはギリシア哲学を愛し、ヘーゲル弁証法を学んだ単純な学者にすぎない。それから、現在クーシャティ(食うこと)、ダモイ(帰国)にのみ心を引かれているウオエンノプレンニクの間に、政治活動を活発にするためには、ソ同盟自身が、社会主義の良い所を彼らに体験させてやらねばならない。ところが、彼らが日常見聞するのは、ソ同盟の悪い所ばかりである。』政治部員は怒った。『おまえは反動だ。ブルジョア観念論者だ。わたしは、おまえを炭鉱収容所に送ってしまう。』『どうぞ』とわたしは答えた。わたしは、他の収容所に転送されなかった。通訳としてのわたしは、やはりこの収容所に必要だったのである。わたしは、所外の作業に出ることになった。そして夕方作業から帰って来てから通訳の仕事をした。/わたしの代りにプロレタリアート出身の者が工作員になった。/およそ大衆の間で政治活動を活発にするためには、何よりも大衆の生活と心理に密接し、彼らの切実な問題を実践的に解決してやることが第一歩である。ところが、わたしは、非現実的、非大衆的、非実践的な『哲学青年』だった。政治活動は、根本的にわたしに向かなかった。」
 生殺与奪の権を握ったソ連の政治部員に対して、普通反論することは出来ないことでした。『日本新聞』を指導し、その後、強硬な対日政策の立案者になったイワン・コワレンコは『沈黙のファイル』のインタビューで次のように述べています。「日本人は目立つ特色を持っている民族だ。まず集団主義の国民、勤勉な国民ということだ。日本人は約束すればどうしてもそれを実現して遂行する。文化的にも高い。そして権力に弱い。こうした民族性は収容所で日本人を管理するのに役に立った。日本人は論争はまず一切しなかった。命令には『はい、そうですか』という返事以外は聞いたことがない。収容所時代は私の日本人の対する経験の一部ではあるが、『日本人は強く出れば引き下がる』という私の考え方に影響を与えた。」
 権力に弱く、反論もせず、どんな命令にも従う、この「日本人の特色」は戦後60年たって、少しは変化したのでしょうか。菅はその点で、稀有な人の例と言えそうです。
◇上からの「民主化」
 最初、インテリを中心に組織された収容所「民主運動」指導者も、労働者階級出身者に入れ替わっていきました。「そのころ『政治講習会』が開かれた。各収容所から数名ずつ選抜して、病人ばかりの収容所に集め、そこで政治教育を行うのである。」「1948年2月はじめ、政治部員が、大隊長とわたしを呼び出して、『大隊の一切の委員会を解散せよ、総選挙によって民主委員会という委員会をつくれ』と命じた。大隊長はひじょうに困った。せっかく部隊は、大隊委員会、中隊委員会の組織で一おう安定しかかったのに—。しかしこの『民主委員会』の設置は、『モスクワからの命令』であり、ソ同盟全部のウオエンノプレンニク収容所に一せいに行われたことだった。ちょうど民主委員会選挙の二、三日前に、『政治講習会』の一次、二次の終了者が帰ってきた。」政治教育が民主委員会の第一の任務でしたが、「さしあたりみんなの心に一ばん深く印象されたのは、民主委員会が帰国者の選抜について発言権をもっているということであった。すなわち、委員会は収容所当局が選定した帰国者の中で不適当と認める者については、その者の帰国を遅らせるよう意見を当局に述べることができる、というのである。」

《中庭だより》
☆10月11日、北見図書館祭実行委員会より、昭和15年発行、小樽新聞野付牛支局開設二十周年記念号付録『躍進北見 人物と事業』の提供がありました。この資料は他には道立図書館と常呂町公民館図書室にしかない、大変貴重なものです。本当にありがとうございました。
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