ヌプンケシ108号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.108
title
平成17年11月15日発行

シベリア抑留と北見市民(11)sorini

◇失われた若い命
 菅季治は収容所で亡くなった二人の若い兵士のことを、次のように追悼しています。
「Tは頬がりんごのように赤い初年兵だった。いつもひっそりもの静かで、しかも働き者である。わたしは、彼を見ると、ドストエーフスキイが『死の家の記録』の中で、『世の中には,生まれながらにして、この上もなく美しい資質に恵まれ、神の恩寵をほしいままにしている人間があって、それがいつか悪い方に変って行くかもしれないなどということは、考えることさえ不可能なように思われるほどである』と語った清らかな若者とは、Tのような人間であったろうか、と思ったことがある。Tは、はじめは滅菌所のペーチカ焚きをやっていた。いつでも、滅菌所の内外はきれいに片づけられ、燃料はきちんと積まれ、ペーチカはよく燃えていた、夜など照明のない滅菌所で、一人ぽっちで、ペーチカの火を見つめているTは、何か『若い聖人』といった印象を私に与えた。/わたしたちのいた地方で一ばんきびしい二月に、Tは所外の作業に出された。そこでも彼は、ずるい年長の連中が、『そう働かれちゃ、おれたちが困る』などと文句を言うほど、よく働いた。彼の作業場は鉄工所だったので、二、三日で衣服はすっかり汚れてしまった。きれい好きな彼には、それが堪えられなかった。彼は上衣を洗たくした。しかし、えんりょ深い彼は、他人に代用品を借りることができず、上衣なしに外とうを引っかけて作業に出た。夕方帰って来た時、ひどい悪寒がした。肺炎だった。翌日、中央病院に転送されたが、間に合わず、苦悶しつつ死んだそうである。荒っぽいシベリアの寒風にあっけなく吸いこまれたTの若く清らかな生命だった。」
 「その兵隊の名まえをわたしは知らない。若い初年兵だった。彼は、粘土掘りをしていた。とつぜん上から粘土層が少し崩れて来た。彼はあお向けに倒れ、トロッコ線路で腰を打った。その打ち所が悪かったのだ、と医者は説明した。彼は意識を失い、数時間後に死んだ。死ぬ少し前に、細い声できれぎれに言った。『おかあさん、おかあさん。にんむをはたしました。』」
 この若者の最後の言葉は、菅の心を強く動かして、書き遺させたのだと思います。
◇将校団の除け者
 上からの「民主化」とは言え、「収容所に新しい空気がただ良いはじめた。/軍隊地獄の奴隷兵隊であり、陰気にうなだれた日本人たちが、ふみにじられ、失われかけた『人間』と『生』とを取り戻そうとする気配が感じられるようになった。/カラガンダにも春の訪れが近づいた頃だった。/大衆は新しい民主委員会のまわりにだんだん集まりつつあった。将校の幹部たちの実質的な権威はなくなった。それに他の地区からの転入者もあったので将校の数はずいぶん多くなった。何にも地位役割を持たない将校——つまり能力の乏しい連中も、かなりいた。国際法規上将校に肉体労働を強制することは許されないので、彼らは、所内でブラブラしていた。大隊長は、彼らのために、いろいろ有名無実な役目を考え出した。たとえば浴場監視、野菜切場監視、バラック当番、といった工合である。さらに民主委員会は、自分の権限を活用して、不適切な将校を小隊長の地位から、しりぞけ出した。わたしは、通訳という特殊な地位にあった。わたしは、はじめから、将校団から仲間外れになっていた。しかし、わたしはやはり、見習士官だったし、それにインテリゲンチャ(知識階級−引用者)を軽蔑しながら愛していた。」
 1948年のメーデーには、民主委員会が計画した運動会、演芸会に多くの捕虜たちが熱心に参加しました。「このメーデー・カンパは、わたしたちの収容所における民主委員会の支配を確立した。兵隊大衆は、新しい目で自分たちの生活を見るようになった。自分たちの生活を自分で組み立て直す意欲が芽生え出した。たとえば、兵隊に一ばん身近な指導者であり権力者である班長は、今まで将校によって天降り的に任命されていた。ところが今では、兵隊たちは、班長を選挙で定めることを隊長に要求した。」動揺した将校たちは、全ての幹部の地位から退くとの決議をし、民主委員会はこれを受けて、一般兵士たちから「大、中、小隊長」を選ぶこととし、「選挙の結果各中隊とも、信望のある下士官が中隊長に選ばれた。小隊長には兵も選ばれた。」
 「将校たちはふてくされた。『兵隊にやれるもんならやって見ろ!』という気分があった。わたしは将校団からのけ者にされた。改革後の最初の将校集会に出た。『ああ、兵隊さんのおせわをやかんでもよくなって、ホッとしたわい』『これからは思うぞんぶん碁やマージャンができるのう』などと言う者がいた。或る将校が言った。『皆さん、わしたちと考えのちがう人にや、この会議から出て行ってもらいましょうや』わたしは彼らのくずれたアトモスフェア(雰囲気—引用者)に堪えられなかった。/わたしは、劇団員にたのんで彼らと起居を共にすることにした。彼らは、わたしを喜んで迎えてくれた。」
◇ナロード=民衆の可能性
 一般兵士たちが積極的に労働し、収容所内での生活も自主的に改善していく姿を見て「わたしは、この間に、ナロードというものにたいする自分の考えを変えた。以前わたしは、ナロードを軽蔑し哀れんだ。ウオエンノプレンニク(捕虜—引用者)になれば、クーシャティ、ダモイ、スパーティ(食う事、帰国、眠ること−引用者)しか思い語らず、全てをあざけりひがんで見る、そして自分を『崇高な孤独者』と思って来た。しかし今では、このような自分の態度が恐ろしくひとりよがりであること、自分こそ軽蔑され、哀れまるべき人間だと思うようになった。人民大衆には、二つのあり方があること、一方においては、極めて愚かしく卑しい哀れなあり方、他方においては、極めて創意性に富み豊かなすぐれたあり方、そしてこの二つのあり方の間には、相互転換、相互移行が可能である。」
 菅は、民衆の行動に肯定的な面と否定的な両面の可能性を見出していたようです。
 「講師」という名目で「一九四九年春以来、『われらの祖国ソ同盟のために!』とか『断固反動を粉砕せよ!』などとはなばなしくアジることを期待されたのに、わたしは、『ソ同盟にも不自然な所や遅れた所がある』とか『反動と言われる者も日本人民である。彼らに自由に民主運動を批判させなければならぬ』などと説いた。そのため、アクチーブ(活動家−引用者)たちから『プチブル』『日和見主義』と非難された。/わたしは中ぶらりんである。この中ぶらりんである自分自身にそむけないのである。」
 哲学者として「真理」に忠実であろうとした彼には、状況しだいで勝ち馬に乗るようなまねはできず、それを「中ぶらりん」と表現したのかもしれません。そんな彼だからこそ、徳田要請問題でも誠実なあまり、器用に立ち回ることができず、その時代の政治の犠牲にされてしまったのでしょう。彼の生き方から何を学ぶかは、今を生きる私達の問題であります。(終)

《中庭だより》
☆少々尻切れトンボですが、この連載も今号で完結とします。戦後60年といっても未解決な問題が多数残されています。「シベリア抑留」もその一つです。その原因、対応、菅季治など、調査して、つい11回になってしまいました。次号は菅の友人、平手嘉一をレポートする予定です。
よくある質問のページへ

教育・文化

教育委員会

スポーツ

青少年

生涯学習

学校教育

文化施設

姉妹友好都市・国際交流

歴史・風土

講座・催し

図書館