ヌプンケシ110号

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市史編さんニュース NO.110 
 タイトルヌプンケシ
平成17年12月15日発行 

◎B級戦犯 平手嘉一大尉(2)nyulnberk
◇ニュルンベルク国際軍事裁判
 1945年5月7日、ドイツが無条件降伏すると共に、連合国は人類の歴史ではじめて「平和に対する罪」を裁く準備にとりかかりました。8月8日に、米・英・仏・ソの4カ国で「ヨーロッパ枢軸国の重要戦争犯罪人の訴追と処罰に関する協定」が結ばれました。 この裁判に総計19の連合国が参加、裁判所はドイツ南部のバイエルン州で毎年ナチ党大会が開催されたニュルンベルクに置かれ、裁判長イギリスのローレンス判事、アメリカのビドル判事、フランスのド=バーブル判事、ソ連のニキチェンコ判事で構成されました。
 10月18日、起訴状が公開され、ゲーリングなどナチスや軍部の最高指導者、財閥ら24人が起訴されました。訴因は、「侵略戦争などの共謀への参加」、「侵略戦争などの計画、実行」、「戦争犯罪」、「非人道的犯罪」の四つがあげられました。なお、起訴された者の内、ドイツ労働戦線議長ロベルト・ライは10月25日に自殺し、財閥クルップ家の当主グスタフ・クルップは重病ということで、この2人は審理からはずされました。
 11月20日開廷、次々とユダヤ人絶滅計画等の暴虐が暴露されて、翌年1946年10月1日に死刑12人、終身刑3人、10年〜20年の有期刑4人、無罪3人の判決が言い渡されました。
 死刑判決はマルティン・ボルマン(ナチス書記長)、ハンス・フランク(ポーランド総督)、ヴィルヘルム・フリック(内務大臣)、ヘルマン・ゲーリング(ドイツ空軍最高指揮官)、アルフレート・ヨードル(国防軍作戦部長)、エルンスト・カルテンブルンナー(国家保安部長)、ヴィルヘルム・カイテル、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(外務大臣)、アルフレート・ローゼンベルク(東部占領地域大臣)、フリッツ・ザウケル(労働大臣)、アルトゥール・ザイス=インクヴァルト(オーストリアのナチス指導者)、ユリウス・シュトライヒャー(反ユダヤ新聞発行者)の12人でした。絞首刑は1946年10月16日執行されましたが、ボルマンは行方不明のままでしたし、またゲーリングは処刑の前日15日に服毒自殺をとげました。
 終身刑は、ヴァルター・フンク(経済大臣)、最近まで生きて獄死したルドルフ・ヘス(ナチス副総統)、エーリヒ・レーダー(海軍総司令官)。
 懲役20年はバルドゥール・フォン・シーラッハ(ヒトラー・ユーゲント長官)、アルベルト・シュペーア(軍需大臣)の2人。懲役15年はコンスタンチン・フォン・ノイラート(ナチス初期の外務大臣)。懲役10年はカール・デーニッツ(海軍総司令官・ヒトラーの指名後継者)。
 無罪は、ハンス・フリッチェ(宣伝相次官)、フランツ・フォン・パーペン(元首相・駐オーストリア大使)、ヒャルマール・シャハト(財務大臣)でした。
 これはA級戦犯の裁判でしたが、当然BC級戦犯の裁判もヨーロッパ各国で実施されていました。前掲の『BC級戦犯裁判』によれば、そこでは枢軸国であったドイツ、イタリア、オーストリア、ハンガリーなどの国民が戦犯として裁判にかかり、裁かれた人数は約9万人にのぼるそうです。一方、日本の場合、「ソ連裁判を含めて9千人足らずであった。すでに独立国であった被害国多数が自ら戦犯裁判をおこなったドイツのケースと、被害地の多くが欧米植民地であり自ら戦犯裁判をおこなえず、また最大の被害国中国が内戦のために対日宥和的だった日本のケースとの状況の違いが現れているように思われる。」と分析しています。
◇極東国際軍事裁判いわゆる東京裁判
 A級戦犯に対するニュルンベルク裁判のアジア版が極東国際軍事裁判でありましたが、アメリカ政府はニュルンベルクの経験から、最初から主導権を握りこの裁判を進行させました。 
「東京裁判(極東国際軍事裁判)の法令根拠は、直接には1946年(昭和21年)1月19日に公布された極東国際軍事裁判所条例であるが、同日、連合国最高司令官マッカーサーは、以下のような特別宣言を発した。すなわち、(1)第二次世界大戦中、連合国は、戦争犯罪人を裁判に付すと宣言してきた。(2)日本は、戦争犯罪人処罰を降伏条項のひとつとするポツダム宣言受諾を降伏文書で確認した。(3)天皇および日本政府の統治権は、降伏条件実施のため適当な措置をとる権限を付与されたSCAP(連合国最高司令官総司令部の略字−引用者)に従属した。(4)連合国は、SCAPが降伏条項履行のため一切の命令を発すべきことを協定した。それゆえ、SCAPが極東国際軍事裁判所を設立したという。」(『法廷の星条旗—BC級戦犯横浜裁判の記録』より)
 極東国際軍事裁判所条例では、特に「平和に対する罪」が重視されて、迅速な審理を進めることが強調されていました。そして条例第6条で、被告人の公務上の地位や、被告人が政府や上司の命令に従って行動したという事実は、被告人の責任を免除するものでないと述べています。また、ニュルンベルク裁判では米・英・仏・ソ4カ国の合意が裁判進行の絶対条件であったのに対して、この東京裁判では起訴の権限を持つ首席検察官はマッカーサーの指名したアメリカのキーナン1人しか認められず、他国は参与検察官を派遣できるだけでした。国際検察局のメンバーもアメリカ人が多数を占めました。また裁判長も輪番制をとらず、マッカーサーが指名したオーストラリアのウェッブがなり、全裁判官の出席がなくても過半数の裁判官がいれば開廷することができました。これらの制度措置は、高度に政治的で、できるだけソ連の影響力を裁判から排除するためであったのでしょう。
 連合国軍は戦争中から戦争犯罪人のリストを作成、日本が降伏するとすぐに各捕虜収容所に急行して、捕虜の安全を図り、彼らから収監されていた状態を聞き取り、調書を作成しました。日本国内の戦争犯罪人容疑者の逮捕は、昭和20年(1945)9月11日に始まり、同年12月6日までに出頭を命じられた容疑者は、100人以上にのぼりました。この中に平手嘉一もいたのです。
また、出頭を拒否して近衛文麿(元首相)のように自殺する者もおりました。
 日本の旧支配層には、天皇が戦犯として罪を問われるのかが、大問題でありました。昭和20年9月27日、天皇は連合国最高司令官総司令部にマッカーサーを訪ねました。『マッカーサー回想記』によると、天皇は「私は戦争を遂行するにあたって、日本国民が政治、軍事画面で行った全ての決定と行動に対して責任を負うべき唯一人の者として、私自身をあなたが代表する連合国の裁定に委ねるために、ここにきました」といい、これに対してマッカーサーは「陛下が日本の再建について、何らかの意見をお持ちであれば、いかなることでも、私にいっていただきたい、陛下のご意見が連合国の政策と合致するものであれば、できるだけ速やかに実行することを約束します」と答えたとあります。その後、あの有名な二人並んだ写真を撮りました。それを見て、天皇がマッカーサーに命乞いに行ったと感じた国民もおりました。ともかく、天皇は、この会見で米国は自分を戦犯にしないと確信したのではないでしょうか。(続く)

《中庭だより》
☆本年も残り少なくなりました。『北見現代史』の編集もこれからといったところで、執筆者の皆さんには文章をできるだけ圧縮してもらう無理を言って、心苦しく思っております。筆者自身が担当しているところは、まだまとめていないので、さすがに焦りはじめました。(冷や汗)
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