ヌプンケシ113号

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市史編さんニュース NO.113
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平成18年2月1日発行

◎B級戦犯 平手嘉一大尉(5)gunso
◇国際法と日清戦争の実態
 明治維新となり、国際社会へ門戸を開いた日本は、国際法を尊重することで近代国家としての文明度を示し、不平等条約の改正を目指していました。
 朝鮮に対する日本の支配権を確立しようと、明治27、28年(1894〜1895)に起こされた日清戦争の『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』(明治27年8月1日)においても、「苟(いやしく)モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ」と、国際法に反することがないように、軍隊をはじめ「百僚有司」に注意を呼びかけています。
 しかし、実のところは「当時の日本軍は『戦争に関する著述を有せざりし』状態だった。陸軍大学校教授で国際法学者であった有賀長雄(あるが ながお-引用者)が『明治二十七年に一書を著し』、ようやく戦時国際法に関する認識が定着したという状態だった。」ので、一般兵士にまで捕虜の取扱など戦時国際法の遵守が徹底するわけがありません。日本国内には知らされませんでしたが、明治27年11月21日、旅順攻撃において日本軍が兵士・民間人を見境なく虐殺したことがアメリカの新聞に報道され、実際その戦闘に参加した長野県出身の兵士・窪田仲蔵の日記にも、日本兵が晒し首にされていた復讐に「旅順市中ノ人ト見テモ皆討殺シタリ 故ニ道路等ハ死人ノミニテ行進ニモ不便ノ倍ナリ 人家ニ居ルモ皆殺シたいていノ人家ハ二三人ヨリ五六人死者ナキ家ハナシ 其ノ血ハ流レ其ノ香モ亦甚ダ悪シ」と記されています。
 全体で「日本が捕獲した清国の捕虜は、将校下士官など1790人である。戦場で無差別に殺戮したためか、清国兵の捕虜は少ない。」(以上、内海愛子著『日本軍の捕虜政策』より)
 清国の兵士達は、満州各地から掻き集められた農民や乞食たちだったそうで、十分な教育も訓練もされていない連中であったようで、しかもろくな武器も与えられず、長槍などで武装した彼等が日本軍に立ち向かっても、弾丸や砲弾の餌食になるだけでした。日本兵が戦場で見聞きした中国の兵士や民衆の生活の様子は「不潔」「貧困」「無知」と印象づけられ、この遅れた「野蛮国」を「文明国」の日本が保護・支配するのは当然の権利と、日本国民も感じ、思うようになりました。「俘虜のあつかいとて、後の日露戦争におけるロシア兵俘虜の取り扱いとはかなりちがうものがあった。清国俘虜に対する日本の態度は、本質的に侮蔑をひめた憐憫であり、乱暴なものであった。」伊予松山では、捕虜収容施設は時代劇に出てくる刑場のように「チャンチャン坊主(中国人の蔑称−引用者)を寺の本堂に押入れて、ぐるりに竹矢来を廻してゐた。」そうです。(以上、大濱徹也著『庶民の見た日清・日露戦争』より)
◇日露戦争とロシア人捕虜
 明治37年(1904)2月から、翌年の9月まで展開された日露戦争の経過については、当市のホームページ歴史・風土にある、『ヌプンケシ』67〜82号を参照して頂くとして、『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』(明治37年2月10日)にも「凡ソ国際条規ノ範囲ニ於テ一切ノ手段ヲ尽シ遺算ナカラムコトヲ期セヨ」と国際法を重視するように強調しています。
 「大本営(1904年2月11日設置)には、学者や外交官が配置され、各軍令部には国際法学者3名が法律顧問として従軍していた。国際法学者である秋山雅之介陸軍参事官が、国際法を専攻する者を物色し、各軍の顧問として従軍することを要請したのである。」
 日清戦争の時の国際法顧問でもあった有賀長雄は、「日露戦争には満州軍総司令部付きの国際法事務嘱託として従軍した。(中略)世界に向かって日本の戦争が『文明戦争』であることを宣伝する意図をもって、行動していた有賀は、旅順開城に加わり、開城規約を起草し、交渉の任にあたり、捕虜の待遇についても軍人を指導し、休戦、講和の後継事務についての『日露両国の談判にも参与』した。」
 「捕虜取扱の関係法令も整備された。『俘虜取扱規則』(1904年2月14日、陸達二二号)には、『俘虜ハ博愛ノ心ヲ以テ取扱ヒ決シテ侮辱虐待ヲ加ウヘカラス』(第二条)など、34条に及ぶ規則が定められており、この法規は、各部隊や直接、取扱の任にあった者により最も確実に遵守されていたという。/捕虜宛ての寄贈や救恤品の運賃、手数料、配達料を無料にすることや、外国からの捕虜宛ての物品の輸入は免税とするとの通関の取扱、内国税も免税とする、捕虜の所持金の日本通貨と引換方法も決まった。」
 ロシア人捕虜の人数は、全体で86,663人、うち日本国内29ヵ所の収容所に収容された人数は79,454人になるそうです。日本の新聞は、ロシア人捕虜の動向を報道し、収容所にいるロシア人の様子を見物に出かける人々もいました。「捕虜には、自由散歩および民家居住が許可されていた。監視なしに自由に散歩し、妻子やその他の家族が本国から渡航してきた場合には、本人と共に民家に同棲させる方針だった。」(以上、『日本軍の捕虜政策』より)
 収容所のあった金沢を舞台に、ロシア将校と現地女性とのロマンス、五木寛之作『朱鷺の墓』という小説もあります。日本で捕虜生活を経験したロシア人の中には、その厚遇に対する感謝の念を忘れず、シベリア抑留の時に陰ながら日本人抑留者を助けてくれた人達もおりました。
◇虐殺・偏見
 降伏したロシア兵を虐殺した例が、大江志乃夫著『兵士たちの日露戦争』で報告されています。明治38年8月、樺太遠征軍の一部が真岡に出動し「三十日正午に至りナイフチ川上流にて件の敵に衝突して約三時間激戦ののち、彼れらは進退きわまりて百八十名の者一同に白旗を掲げて降参せり。また翌日捕虜残らず銃殺せり。」大江志乃夫は「一個中隊約200名の兵力で捕虜180を遠路護送するのは困難との理由から、全員銃殺されたのであった。」としています。

senjigahoo27 ロシア人に寛容であった日本人は、その一方で中国人には蔑視の眼を向けていました。スパイ行為でも「ロシア人であれば、自国ロシアのためにスパイ行為をするのは、むしろ当然だと思われていた節がある。/実際、『日露戦争写真画報』や『戦時画報』は、ロシア人スパイの逮捕や処刑を報じる際、敵ながら勇敢なりと、賞賛さえしている。そこには、敵味方であっても、互いに自国のために最善を尽くした者同士の交流を示す意図が籠められていた。これに対して、金によってどちらにも転ぶ二重スパイ、内通者は外国人でも蔑まされた。殊に、ロシア軍優勢の時にはロシアに就き、日本軍が進撃してくると手のひらを返す清国人は、場合によってはロシア軍兵士以上に憎まれた。『戦時画報』二十七号にも、両手を後ろで縛られて地面に坐らされた清国人のスパイの絵が描かれている。注記によれば六人が捕まり、四人は処刑、二名は放免とある。ロシア人スパイとは対照的な扱いだ。」(引用・挿絵共に長山靖生著『日露戦争』より) (続)

《中庭だより》
☆先日、金田明夫様から、劇作家=斉藤憐著、西条八十の評伝『ジャズで踊ってリキュルで更けて』にある、フィリピンのモンテンルパ収容所にいたBC級戦犯達が歌謡曲『ああモンテンルパの夜は更けて』で救われた話のコピーが送られてきました。誠にありがとうございました。
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