ヌプンケシ114号

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市史編さんニュース NO.114
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平成18年2月15日発行

◎B級戦犯 平手嘉一大尉(6)
◇日露戦争でも「捕虜になるくらいなら自殺しろ」
 一般に日露戦争では、日本軍は捕虜になった兵士に自軍・敵軍を問わず寛容であったとされてきましたが、徴兵制が制定以降、出版された入営者心得や兵士への慰問文案集を研究した一ノ瀬俊也著『明治・大正・昭和軍隊マニュアル 人はなぜ戦場に行ったのか』では、日露戦争の頃から、「捕虜にならず自殺しろ」という論調が模範文で流布されていた例があげられています。明治「三七年、兵力輸送中の陸軍輸送船常陸丸・金州丸がロシア艦隊に襲撃され、降伏を拒否して撃沈、乗員の大半が戦死したという事件があった。この事件は銃後の人々の心を揺さぶり、慰霊文『マニュアル』にも、彼らを称賛する文章が踊ることになった。/前出高橋毅堂『弔祭慰問文資料 付戦時感謝文』(明治三八年)は、『常陸丸殉難戦死者某君を祭る文』にて、『敵手に罹りて斃れんよりは、自ら潔く屠腹[=切腹]するに若かずとなし、剣に伏して終に絶命せりと云う。嗚呼、何ぞ夫れ壮烈なるや』(一二〇・一二九頁)という文章を掲げている。前出養武会編『送迎軍人祝祭演説』も『金州丸乗組陸兵憤死者を弔す』にて『捕虜に就くを辱とし従容として自裁す、其の心何ぞ剛にして正なるや、彼れ醜虜をして心胆寒からしめしや明けし』(一二八頁)という。/こうした味方兵士の壮烈な死にざまの称揚を通じて、『醜虜』という言葉が示すように、ロシアに対する敵愾心がつちかわれてもいったのだ。/そうした美談は、後に続く兵士の行動を必然的に規定することになった。(後略)」

manyual1 「捕虜にならないという規範は、単なる美意識上の問題ではなかった。敵の精良な兵器に対抗するには『日本魂』をもって戦うしかないという、切迫した情勢認識も存在したからである。『断じて捕虜には就かじ、請う安心せられよ、而して敵の軍器精良にして射手い良手と雖も、我れに忠良なる日本魂あり』とは、前出養武会『送迎軍人祝祭演説』収録の、『野戦砲兵予餞会席上祝文』(二六頁)である。こうした『捕虜にならないこと』=『日本魂』という言説の社会的流布は、必然的に以後の捕虜禁忌視へとつながっていった。」「こうした種々の語りを通じてつくられていった『捕虜=禁忌』という観念は、現実に捕虜となった者(戦争を通じての日本兵捕虜は約二〇〇〇名という)に対して向けられた、社会の冷ややかな視線として具現化した。」
 「以上のような敵の優勢な兵器に対抗するには死ぬ気で戦うしかない、捕虜になるのは卑怯だという論調のあり方は、のちのノモンハン事件、太平洋戦争時のそれと同一である。そこでの敵軍の捕虜に対する虐待も、こうした考え方の裏返しである。『合理的』な戦争であったようにみえる日露戦争であるが、まさにその中からこうした非合理的『精神論』が社会の中に芽ばえていったことは、留意されて良い。戦争は戦争なのであり、『合理的』『非合理的』の区分けは不毛なのだ。」
◇人命軽視の軍人勅諭が根本
 こうした「捕虜」になることを恥辱とする思考が国民一般に広まる根本は、軍人勅諭でした。軍人勅諭は、自由民権運動などの高揚に対して、軍隊がそれに結びつくことを恐れて、明治15年(1882)に明治天皇から下されたもので、軍隊は天皇の支配に直属することを明示し、忠節・礼儀・武勇・信義・質素といった軍人の徳目を説いたものでした。
 その「忠節」の中で「世論に惑はす 政治に拘らす 只々一途に己か本分の忠節を守り 義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ 其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ」(下線は引用者)とされました。この一節で、義=「正しい行為」は何もよりも重要で、死ぬことは大鳥の羽毛よりも軽いことだと覚悟しろと諭しているわけです。男子は義務教育と徴兵の過程で、教育勅語と軍人勅諭を叩き込まれたわけで、こうした徳目が日露戦争(1904〜1905)までに行動規範として定着し、個人の生命・人権よりも「国家義務を優先する」のが大日本帝国臣民の「常識」となっていったわけですから、軍人の「義」が「戦う」ことであれば、「死ぬ」ことは当然であり、捕虜になることは「不覚を取り汚名を受くる」ことであったのです。
◇「俘虜の待遇に関する条約」未加入
 第1次世界大戦(1914〜1918)では、日本は連合国軍に組してドイツと闘い、そのアジアでの利権を奪い、戦勝国になりました。主戦場はヨーロッパであり、近代戦・総力戦の恐ろしさを戦勝に酔った日本国民が実体験として認識したとは言えず、それが無謀な第2次大戦へ突入する遠因にもなったと筆者は考えています。第1次大戦は潜水艦・飛行機・戦車・毒ガスなどの新兵器が登場、全世界からの兵士の動員など、これまでにない戦争でしたから、それまであった戦時国際法の見直しが進められました。そのジュネーブ条約の一つに、昭和4年「俘虜ノ待遇ニ関スル一九二九年七月二七日ノ条約」もあったのですが、日本代表は署名したものの、その後、陸海軍の反対で批准しませんでした。陸海軍共に、この条約を批准すると既存の軍紀・法規を改正しなくてはならないこと等を主な反対理由にしていましたが、その背景には「日本においては古来俘虜となるということを大いなる恥辱と考へ 戦闘員は俘虜になるよりは寧ろ死を撰べ と教へられて来たのであります。これがため寿府(ジュネーブ−引用者)条約を批准することは 俘虜になることを奨励する如き誤解を生じ 上記の伝統と矛盾するがあると考えられました。」と、東条英機が東京裁判の口述書で述べています。(『日本軍の捕虜政策』より)
 この条約に参加しなかったソ連においても「無降伏主義」が採られ、捕虜になることが禁止されました。捕虜になったソ連軍将校の家族は配給を止められ、捕虜が生還した場合はシベリア送りになりました。2月2日、衛星放送で映画『スターリングラード』が放映されていましたが、そこで退却してくる友軍を射殺する督戦隊の場面もありました。対するドイツ軍も捕虜になったら、どんな復讐をされるか分らないので、死に物狂いで戦闘したと聞いています。
 日本は国内の経済的矛盾の解決のために、中国大陸の侵略を図り、「満州事変」「上海事変」最終的に日中戦争に発展した「支邦事変」まで、「武力行使」を「事変」と称してきました。宣戦布告してないから、「紛争」であっても「戦争状態」ではないという理屈でした。『日本軍の捕虜政策』によれば「日本は、なぜ宣戦布告しなかったのか。周知のように、宣戦布告することによる損失が大きいと判断したことによる。国際法上の戦争とした場合、中立法の適用をうけて、アメリカなど第三国からの軍需物資や資材を輸入することが難しくなる。なによりも宣戦の『大義名分』が乏しかった。」そうです。しかし、このことで投降した中国兵は正式な捕虜とされず、現地の判断で勝手に「処分」されていたのです。野付牛出身兵士の日記にも「昨日捕虜せし残兵は銃殺せり。」、「今日は私が4名銃剣で突き殺した。日本人であったらとても突けませんが、支邦人であるから別に可哀相とも思わず殺せました。」と記されています。(続く)

《中庭だより》
☆先日、インターネットで戦時ポスターを取り上げたヌプンケシ55号の記事を見たと、「紀元二千六百年記念:日本万国博覧会」のポスターを制作した中山文孝氏のお孫様から、お手紙と関係資料が届き、貴重な情報のご提供に恐縮しました。ありがとうございました。
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