ヌプンケシ115号

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市史編さんニュース NO.115
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平成18年3月1日発行

◎B級戦犯 平手嘉一大尉(7)
◇『戦陣訓』の制定

hajime 日中戦争の長期化に伴い、中国に派遣された日本軍では軍紀がゆるみ軍事作戦の混乱に乗じて兵士が略奪・強姦・殺人をやりたい放題だったそうです。大体、一般兵士は軍紀などまとまって教えられず、初年兵が軍隊に入って最初に叩き込まれたのは、「上官の命令は絶対」「死んでも捕虜になるな」「天皇陛下からいただいた三八歩兵銃は死んでも離すな」の三つだったと言われますから、捕虜に関する戦時国際法など知る由もありません。日中戦争では初年兵達の「度胸」をつけるために必要として、捕虜が銃剣刺突訓練の標的にされたことは、井上俊夫著『初めて人を殺す 老日本兵の戦争論』等でも報告されているとおりです。
 「1940(昭和15)年には、東条英機陸軍大臣は法務部長を前に、軍隊での犯罪が依然、減少していないことにふれ、『上官暴行、抗命、逃亡等ノ軍紀犯牘職強姦盗犯等破廉恥罪多発』しているが、この処理は軍紀に大きく影響を及ぼすと口演している。/軍紀が乱れている、これを是正し、軍人の守るべき道徳的基準を明確にしようと、陸軍省は『戦陣訓』の作成にとりかかった。畑俊六陸軍大臣の決裁ののち、1938年秋から教育総監部(総監山田乙三、本部長今村均)が作成にあたった。作成の中心的な役割をはたしたのは、今村均教育総監部本部長である。できあがった『戦陣訓』が全陸軍に布達された。しかし、起案にたずさわった今村自身が、軍司令官として戦地でこれを読んでみると、戦陣で守るべき道徳の主眼点がはっきりしておらず、迫力がなかったという。このため、和辻哲郎、井上哲次郎や島崎藤村、佐藤惣之助、土井晩翠らの協力を得て、文章表現が練られ、改めてできあがったのが、1941年1月8日、東条英機陸軍大臣の名前で示達された『戦陣訓』である。」(以上、内海愛子著『日本軍の捕虜政策』より)
◇『戦陣訓』の内容
 筆者も『戦陣訓』の原文を読んで見ましたが、読み方も意味もわからない文字が並び、これが著名な哲学者や文学者が協力した文章とはとても信じられない代物です。
 その「序」には、この文章の目的を次のように記しています。「惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜はりたる勅諭に炳乎として明かなり。(中略)然るに戦陣の環境たる、兎もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべけんや。乃ち既往の経験に鑑み、常に戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。」簡単に読み下すと、「これまでの経験に照らして、常に戦陣において、軍人勅諭で明らかな軍人精神の実行を完璧にするため、具体的な行動の拠りどころを示して、皇軍の道義の昂揚を図ろうとするのが、この戦陣訓の真の目的である。」としており、言いかえれば前号で取り上げた天皇への絶対服従と人命軽視の「軍人勅諭」の精神を、完璧に実現しようというのが『戦陣訓』の目的であったのです。侵略戦争から発生した不正や軍隊の構造的問題を、「軍人勅諭」の実践徹底、強制で解決しようとしたわけで、最初から無理があったのです。
 その「序」のあと、「本訓 其の一」として「第一 皇国」「第二 皇軍」「第三 皇紀」「第四 団結」「第五 協同」「第六 攻撃精神」「第七 必勝の信念」が述べられています。
 「本訓 其の二」として「第一 敬神」「第二 孝道」「第三 敬礼挙措」「第四 戦友道」「第五 率先躬行」「第六 責任」「第七 生死観」「第八 名を惜しむ」「第九 質実剛健」「第十 清廉潔白」があげられています。特に「第七 生死観」には「死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。/生死を超越し一意任務の完ついに邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。」とあり、次の「第八 名を惜しむ」の「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ。」と一体になっているようです。
 「本訓 其の三」には「第一 戦陣の戒(いましめ−引用者)」が9項目、「第二 戦陣の嗜(たしなみ−引用者)」にも9項目、それぞれ心得が書かれています。
 そして「結」には、「以上述ぶる所は、悉(ことごと)く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるべからず。/戦陣の将兵、須(すべから)く此趣旨を体し、愈々(い良いよ)奉公の至誠を擢(ぬき)んで、克く軍人の本分を完(まっと)うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。」と、『戦陣訓』全ての記述が「軍人勅諭」を根本にしていることを再確認しています。
◇日本兵が捕虜になること=「社会的死」
 日本兵はこの『戦陣訓』は暗記させられ、「捕虜は殺すか、捕虜になったら殺されるしかない。」と思いこまされていましたから、太平洋戦争末期、劣勢で「降伏」するしかない極限状態にあった兵士の多くは自殺的戦闘行為=玉砕に追いこまれました。自殺するのは、敗残兵には当然の行為でした。そして、捕虜になってからも、「生きて虜囚の辱を受けず」という文言は戦争が終るまで日本兵を心理的に苦しめ続けました。
 この『戦陣訓』が制定される前でも、捕虜になったら日本社会では死んだも同然で「家族に迷惑をかけるので、日本には二度と帰ることは出来ない。」と思われ、実際に昭和14年(1939)のノモンハン事件で捕虜になった日本兵の多くは、そのままソ連に残留しました。
 「米軍兵士にとって捕虜になることは、戦争を継続することであり、規範を逸脱することではなかった。むしろ、捕虜となって生還することは名誉なこととされた。しかしながら、ガダルカナルでは、日本軍が一切の捕虜をとらず、しかも捕虜となった米軍兵士が虐待・惨殺されるのを見てきた米軍兵士は、次第に捕虜となることを忌避し、日本兵の捕虜もとることをためらうようになった。降伏すると見せかけて、自爆の道連れにされることもあったからである。(後略)/一方、捕虜となることは不名誉なことであり、死ぬまで戦うことを『玉砕規範』によって教え込まれた日本兵は、いったん捕虜となると米軍の格好の情報源となった。『(日本兵の)捕虜は、厚遇すればあらゆる話題について相当の量にわたる証言を提供するのが常であった』と米軍戦史も記している。『あきらかに、降伏することは不名誉だとする日本軍の信条ゆえに、帝国陸軍はもし捕虜になったらどうすべきかを教育することを看過した』と米軍には思えた。米軍ではつけることを禁止されていた日記も、日本兵には詳細につけていたものが少なくなかった。これらの日記も米軍にとっては貴重な情報源だった。」(河野仁著『〈玉砕〉の軍隊〈生還〉の軍隊』より)日本兵にとって捕虜になることは「社会的な死」を意味する以上、日本に帰ることは出来ず、生存するために米軍の「模範的捕虜」になろうとした、と著者河野仁は分析しています。(続く)

《中庭だより》
☆2月16日の『経済の伝書鳩』に史稿33号『きたみ中心市街地』の残部を希望者に提供するという記事が出たら人が詰めかけ、60部あったのに翌日の昼前にはなくなりました。中には訳もわからず貰いにきた方もいて、「何だ、こんなもんか。」との捨て台詞には職員がっかり…。
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