ヌプンケシ116号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.116
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平成18年3月15日発行

◎B級戦犯 平手嘉一大尉(8)
◇日本軍に捕らえられた捕虜達は?
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 前号では『戦陣訓』をレポートしましたが、今号は太平洋戦争で日本軍に捕らえられた捕虜達がどのように扱われたか、次に林博史著『BC級戦犯裁判』から要点を拾ってみましょう。
 「アジア太平洋戦争で日本軍の捕虜になった連合軍将兵は約35万人にのぼる。そのうち29万人が開戦後6か月以内に捕まった者である。このなかで約15万人がイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの本国軍将兵だった。残りはインド人やフィリピン人など植民地軍で、かれらは日本への協力を宣誓して釈放され、日本軍が編成したインド国民軍に編入されたり、あるいは労働力として日本軍に配属され太平洋の島々に送られたりした。なかにはシンガポールで捕まったマレー人や中国人捕虜のように日本軍への協力を拒否して処刑された者もいた。
 中国でも長年の戦争のなかで大量の捕虜がいたはずだが、日本軍は中国では捕虜の存在そのものを認めず俘虜収容所も設けなかった。日本軍に捕らえられた中国軍将兵はただちに処刑されるか、労務者として使われたうえで殺されたり釈放されたりした。花岡鉱山で強制労働させられていた中国人の多くはこうした捕虜だった。」
 ここで挙げられている「花岡鉱山」を筆者が調べたところ、秋田県大館市にありました。そこに国民軍捕虜を含む968人が強制連行され(途中7人死亡)、鹿島組の管理下に満足な食事も与えられず、河川改修等の過酷な労働で137人が死亡しました。戦争末期、昭和20年(1945)6月30日、中国人達は絶望から蜂起し、失敗、逃亡者は警官・消防団員・在郷軍人らに捕らえられ、拷問等で約100人が殺され、同年10月までに合計で418人が死亡したとされています。この中国人強制連行に関連して、当市での実例を挙げると留辺蘂イトムカ水銀鉱山に、戦時中、中国人1,090人が送り込まれ、27人が死亡したといわれています。
 「日本は大量の捕虜を現地の俘虜収容所だけでなく、日本本土や朝鮮、台湾、上海などの俘虜収容所に送った。輸送船で移送する際に、熱帯地方にもかかわらず船倉にすし詰めにされ、移送中にも多くの犠牲が出した。/捕虜を移動させる際に1万数千人が死亡したフィリピンの『バターン死の行進』は特に悪名高い。これは1942年4月、バターン半島で捕虜にした米軍とフィリピン軍将兵、計7万6000人に100キロ以上を炎天下、徒歩で行進させ、数か月に及ぶ戦闘での疲弊に加え、飢餓や病気、日本兵による暴行によって多数の犠牲が出た事件だった。」
 「日本は捕虜の『無為徒食』を許さないという方針を取り、各地で捕虜を強制労働に従事させた。極めて乏しい食糧や医薬品、劣悪な生活環境、監視員による日常的な暴行、厳しい強制労働のなかで多くの捕虜が倒れた。各国の捕虜団体の調査によると、上記の6か国の捕虜14
万8711人のうち4万246人、28.5パーセントが死亡したのである。ナチス・ドイツの捕虜となった英米将兵の死亡率が7パーセント、シベリアに抑留された日本兵の死亡率が約10パーセントであったことと比べても、極めて高い死亡率だった(油井大三郎・小菅信子『連合国捕虜虐待と戦後責任』)。」(ただし、別の資料を見ると、ナチス・ドイツではソ連軍捕虜は別扱いで、捕虜570万人のうち330万人が死亡したと言われ、ここでも「人種的偏見」が捕虜の運命を大きく左右していたことがわかります。)
 大日本帝国がこんなに多くの捕虜達を殺した事実を、今でも多くの日本国民は知りません。反対に英米で強制労働の最悪例として有名なのが、筆者が子どもの頃に観た昭和32年(1957)製作の映画『戦場にかける橋』の題材で、昭和17年(1942)10月から始まった泰緬鉄道建設です。
 その「泰緬鉄道とは、タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤまでの415キロを結ぶ鉄道で、大本営の命令によりわずか1年たらずの突貫工事で完成した。熱帯の山岳地帯のジャングルでの作業は困難を極めたが、それに加えて劣悪な宿舎や貧困な食糧・医薬品などの状態のなかで過酷な強制労働に駆り立てられ、日本兵からも度重なる暴行を受け、多くの犠牲を出した。泰緬鉄道建設に駆り出された連合軍捕虜約6万1800人のうち約1万2300人、アジア人労働者20万人中4万2000人(日本側推定)、あるいは7万4000人(イギリスの推定)が死亡した。まさに『死の鉄道』であり、日本軍による捕虜虐待の中でもとりわけ非人道的なケースとしてしられている。」
 「こうした捕虜虐待の情報は、戦争中から連合国にさまざまなルートで伝わっており、連合国はくりかえし日本に抗議をおこなっていた。ポツダム宣言においても『吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加へらるべし』と捕虜虐待を明示して、その責任者の処罰を宣言していた。」(以上の引用は、全て『BC級戦犯裁判』より)
◇捕虜収容所の実態を米軍調査
 日本軍兵士の召集が徴兵制で、国家制度による動員主義なのに対して、米軍の成立の基本が市民による志願制にあることから、捕虜に対する処遇でも対照的な違いがあったことは前号でも少し触れておきました。つまり、日本軍では兵士は軍馬以下のいわゆる「一銭五厘」=葉書で補充のきく消耗品とみなされ、捕虜になった兵士は社会的にゼロ以下の最悪な存在でした。それに対して、米軍はその存立基盤の原則からも,自軍捕虜の名誉と生命を守ることは必要だったのです。終戦直後、米軍は各地の捕虜収容所へ飛行機で食糧物資を緊急投下し、先のポツダム宣言に沿い、まず各地の捕虜収容所に先遣隊を派遣、捕虜の安全を確保し、早速、虐待の事実がなかったか、捕虜から聞き取り調査を開始しました。
 余談ですが、先述の花岡事件が明るみに出たのも、10月7日、米軍が調査に花岡にやってきて、棺桶から手足のはみ出た中国人の死体を発見したのがきっかけだそうです。
 日本国内にいた英米国等の捕虜30,871人の引揚は、8月30日から開始され、9月22日には完了したそうで、その短期間に捕虜達から聞き取りした記録カードが作成され、虐待についての供述書や質問票も回収されました。こうして捕虜虐待の概略が把握されていったようです。
 9月24日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、国内捕虜収容所に勤務した職員名簿の提出を指令しました。これにより具体的な「戦犯」容疑者を絞り、11月8日には日本政府に「日本国内の俘虜収容所、抑留所ならびに病院などにおいて連合国民に対し残虐行為その他の犯行を加えた疑いのある日本人300名を逮捕し彼らを連合軍当局へ引き渡すこと。」を指令しました。
 こうした流れの中で、平手嘉一大尉は出頭、逮捕、裁判を受け、処刑されたのです。(続く)

《中庭だより》
☆3月5日、新「北見市」が誕生しました。これからは、常呂町・端野町・留辺蘂町の過去の歴史も市史編さんの対象になるので、担当者として大いに勉強しなくては!と思っています。ちなみに、当市行政の沿革も明治16年(1883)「常呂外六ケ村戸長役場」開設から始まることになります。各総合支所の皆さんには協力をお願いすると共に、お互い学んでいきましよう。
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