ヌプンケシ117号

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市史編さんニュース NO.117
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平成18年4月1日発行

◎B級戦犯 平手嘉一大尉(9)
◇平手嘉一に対する起訴状
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 大回りをして平手嘉一の裁判にやっと今回辿りついたわけですが、平手の親友であった田村重見がまとめられた『友その生と死の証し−B級戦犯平手嘉一大尉の生涯−』で、昭和21年(1946)1月14日、裁判開廷時、検察官が読み上げた起訴状から見ていきましょう。
 「起訴状朗読/連合軍最高司令官総司令部の命により、1946年1月11日、アメリカ合衆国第8軍司令官の権限に基づいて召集される軍事裁判所に提出する。原告はアメリカ合衆国、被告は平手嘉一である。
 罪 状/平手嘉一 —— 当時、日本帝国陸軍中尉で、のちに大尉に昇進、日本国北海道函館方面地区、室蘭所在で、のち西芦別に移った函館捕虜収容所第一分所の所長であった —— は、1943年1月12日から1945年9月1日にかけての期間、アメリカ合衆国およびその連合国と戦争状態にあった日本軍隊に捕えられた連合軍捕虜に対し、不法にも残忍かつ野蛮な虐待行為を働き、またその他の犯罪を犯した。さらに、上記の平手嘉一は、同人の命令下にある部下、自分の監督下に置かれている職員を管理し、制止すべき収容所長としての職責を不法に無視し、その結果、上記の収容所に捕えられていた連合軍捕虜に対し、部下たちが残忍かつ野蛮な虐待行為を働き、またその他の犯罪を犯すのを容認した。これらは全て戦争法規と戦時慣習の侵犯である。
 訴 因/1.1943年12月23日乃至はその頃、日本国北海道函館方面地区、室蘭所在の函館捕虜収容所第一分所に於て、当時日本帝国陸軍中尉で、のちに大尉に昇進した平手嘉一は、連合軍捕虜レイモンド C・サットルを、不法かつ故意に虐待し残酷に苦しめ、殴打し、飢えさせ、厳寒に身をさらさせて死に至らしめたこと。/2.(前略)平手嘉一は、R・サットルの“死亡原因?の記録に記載されていた有罪を構成する記述を不法かつ故意に抹消し、連合軍捕虜である前述サットルの死亡に関する公式記録を偽造したこと。3.1945年5月21日乃至はその頃、(中略)平手嘉一は、連合軍D・ラットクリフを、不法かつ故意に、刀を使って残酷にも打擲し、かつ食事を与えず飢えさせたり、長時間にわたって気を付けの姿勢をとらせたりして、非人道的に苦痛を負わせたこと。/4.1945年8月20日乃至はその頃、(中略)A・ウェミスおよび他の連合軍捕虜を不法、故意かつ非人道的に殴打したこと。/5.1943年4月に、(中略)平手嘉一は、多数のアメリカおよび連合軍の捕虜を不法、残酷かつ非人道的に殴打したこと。/6.1943年1月1日頃から1945年9月頃まで、(中略)平手嘉一は、多数のアメリカおよび連合軍の病人の捕虜に対し、不法かつ故意に、薬を与えなかったり、診察を拒んだり、治療をしなかった。このため病状が重くなったり、傷や怪我が直らなくなったり、死亡させるような結果を生ぜしめ
たこと。/7.1943年4月17日頃から1943年4月29日まで、(中略)平手嘉一は、同人の命令と管理下に置かれている捕虜の使用に供するために送られてきた食料、薬品、煙草その他の品物を含む赤十字の物資を、不法かつ故意に出し惜しんだり、与えるのを拒んだり、奪ったりしたこと。/8.1943年1月12日から1954年9月1日までの期間、(中略)平手嘉一は、収容所長としての任務を無視し、また任務を遂行するのを怠り、同人の命令と監督下にある部下がアメリカおよびその他の連合軍の捕虜に大して、以下のような残忍な虐待行為およびその他の犯罪を犯すのを許したこと。」以下、部下による虐待行為がa〜zまで26項目挙げられました。
◇「病死」か、「虐待死」か?
 この裁判の主な争点は、「訴因1」の昭和18年(1943)12月23日に死亡したイギリス軍捕虜レイモンド・サットルの死因が、「急性肺炎」なのか、「虐待」なのか、にありました。
 「サットルは、1943年12月14日に、倉庫から食糧を盗んだ罪によって、10日間の重営倉入りを命ぜられた。」「サットルは、(中略)この時までに2回処罰により軽営倉入りを命ぜられていた。然し、その都度頭痛、腹痛などを訴え出て、衛生保健室で臥床することを常習としていた。/12月14日に重営倉入りを命じた時も7日か8日たってからサットルは病気による診断を申し出たが、平手は常習の手と判断してこれを許可しなかった。翌日再度診断申出があったので軍医に見せたが手遅れによる急性肺炎で死亡した。この診断を一日遅らせたことが平手の重大な落度と認定されて判決に致命的な影響を与えた。」
 サットルが平手ら収容所側の「虐待」によって死んだというのは、すでに本国へ帰った捕虜達が残していった宣誓口述書が根拠になっていました。その捕虜達はサットルの死の現場を目撃したわけではなく、彼等は風聞で「不法かつ故意に虐待し残酷に苦しめ、殴打し、飢えさせ、厳寒に身をさらさせて死に至らしめた」と判断していたのです。
 「日本に於ける戦時捕虜の取扱いについては、昭和17年(1942)5月30日、東条陸軍大臣が善通寺師団を視察の際、同師団長に与えた訓示の中で俘虜に関して次のように述べている。『当師団には俘虜収容所が設置されておりますが、俘虜は人道に反しない限り厳重に取締まり 苟(いやしく)も誤れる人道主義に陥り又は収容久しきに亘る結果 情実に陥るが如きことない様注意を要します。又我国現下の情勢は一人として無為徒食するものあるを許さないのであります。俘虜も亦この趣旨に鑑み大いに活用せられる様注意を望みます。』/この後、新任俘虜収容所長に対し、6月と7月の2回にわたり同様の趣旨のものが陸軍大臣訓示として与えられている。人道の許すぎりぎりの待遇と、戦力増強の為の稼働、この2点の強調が今にして思えば、捕虜収容所関係者の運命を暗示しているかのように思われる。」
114号で筆者がレポートしたように日本は「俘虜の待遇に関する条約」には未加入でした。しかし、対外的には太平洋戦争開戦後、その条約に準じて処理すると、スイスを通じて各国に通知していましたが、実際は「日本陸軍懲罰令」によって捕虜を処罰していたのです。日本軍の厳罰主義で、重営倉入りを命ぜられ、冬の最中、毛布は与えられたものの「営倉ニ錮シ 寝具ヲ貸与セス 飯、湯及塩ノミヲ支給シ 演習及教育ノ場合ヲ除クノ外 勤務ニ服スルコトヲ禁ス 但シ三日ノ内一日ハ寝具ヲ貸与シ 通常ノ糧食ヲ給スルモノトス」では、サットルでなくても病気になるのは当然だったでしょう。平手は軍人として、軍の方針を真面目に実行していたわけで、それが何故罪に問われるのか、理解できなかったのではないでしょうか。つまり日本軍で常識的な「処罰」は、連合軍捕虜からみれば「虐待」そのものだったのです。(続く)

《中庭だより》
☆3月14〜16日、市立釧路図書館に資料収集に行き、大正8年から大正12年までの釧路新聞を閲覧、北見市関係の記事を複写してきました。紙面がなくここには書きませんが、色々発見がありました。その釧路新聞でも大正10年1年間分が欠刊になっていました。資料の無い当市の悲しさ、もし、この1年間分を埋めるとすれば札幌方面に出張、小樽新聞等を見るしかありません。釧路新聞は昭和17年「北海道新聞」に統合されるまで調査したいと思っています。
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