ヌプンケシ139号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.139
 タイトルヌプンケシ
平成19年3月1日発行

◎本別空襲は北見が原因?
◇職場の先輩の話から
 2月18日を前後して、関係機関や市政でお世話になった方々へ『北見現代史』を贈呈配布したところですが、そのお礼にある先輩(昭和14年生れ)が2月21日来室され、『現代史』を見ての感想と絡めて、次のような戦時中の思い出話をしていかれました。
 『現代史』に空襲の話が少し載っていたが、戦時中、夜になると美幌の海軍航空隊のものなのか、夜空を照らす防空用探照燈の、複数の光線が北見からも見えた。敵機にその光線が交差して当たると撃墜できると聞かされて、感心したものだ。(筆者の知るところでは、殺人光線は戦時中研究されていたが、実用化されていないから、単なる探照燈である。)
 網走で空襲のあった日は(昭和20年7月15日)、姉と牧場で仕事をしていた。父親から網走で空
北海道空襲図襲があったから、北見も危ない、防空壕に避難するように知らせてきたが、そのまま木の下で三時間もじっとしていたのを憶えている。
 戦後になって聞いた話だが、本別の空襲(同日)は、北見が最初の目標だったそうだ。当日北見には霧が立ちこめていて、目標だったアルコール工場が見えず、それで本別方面へ向かった。もし、霧がなければ航空機燃料用アルコールを生産していた工場は爆撃にあっていたはずだ。米軍機が若松上空を通過して飛んだのは、若松に住んでいた人たちが見ている。
 こうして『現代史』が呼び水になって古い記憶が蘇り、知られていない「事実」が出てくるのは担当者として願ってもないことです。しかし、これはあくまでも個人のカッコ書きの事実であって、真実かどうかは別の問題です。検証しなくてはなりません。
◇北海道空襲
 右の図は北海道新聞平成17年発行の『戦禍の記憶』から転載したものです。北海道空襲の概略は平成11年発行『北海道の20世紀』で菊地慶一氏が次のように書いています。
 「北海道では、1945年7月までは米軍機の偵察飛行のみで、実際の空襲は見られなかったが、7月14日の早朝午前5時頃より、突如アメリカ空母艦載機による空襲が始まった。/太平洋上を北上しつつあったアメリカ第3艦隊高速空母部隊のうち、第38任務部隊の13隻の空母が北海道東部の太平洋沖に近づいていた。空母から発進したグラマン、ヴォートなどの艦載機のべ約1300機が、函館、伊達、室蘭、苫小牧、帯広、池田、釧路、根室などを銃爆撃し、翌7月15日の石狩、小樽、留萌、旭川、本別、網走などに引き続いた。空襲を受けたのは、太平洋沿岸を中心に78市町村にのぼる。根室は町のほとんどが消失し犠牲者400人、釧路192人、室蘭は艦砲射撃をともなって439人、函館は83人と青函連絡船の沈没により429人と多くの死者を出した。/全道の被害の合計は、死者1925人、負傷者970人、被害戸数6920戸、罹災人口3万3400人である。これは各地で記録されているものの合計であって、あくまでも推定である。」
◇本別の空襲本別の空襲写真
 インターネットを開くと、十勝毎日新聞のホームページに「記者が見た戦争」次の記事がありました。「本別では7月15日午前8時20分ごろから約1時間にわたって米軍機の激しい銃爆撃を受けた。本別町図書館編集の『記録 本別空襲』によると死者40人、被災者1915人、家屋は279戸が全焼、113戸が大破。市街地の約32%が焼失するなど十勝管内で最大の被害となった。帯広を目標にした米軍の43機の攻撃隊が悪天候に妨げられ、雲の切れ目から発見した本別町に攻撃を加えたという説が有力。」このように、本別町を空襲したのは、帯広を目標とした攻撃隊というのが定説になっており、北見のアルコール工場が最初の攻撃目標という資料は出てきません。
 しかし、帯広の高校社会科教師で、民衆史研究家の蓑口一哲氏のホームページに「本別空襲」のコーナーがあり、そこに早坂トモエさんという方の証言があります。
 「当時17歳のトモエさんは、足寄町大誉地(およち)地区の自宅で米軍機の大軍を目にしている。/『朝食の時間ですから、午前6時30分ころだと思います。/普段から、飛行機の音は珍しくなかったのですが、いつもより大きな爆音に屋外に飛び出すと、日本軍とは明らかに違う、黒い色の飛行機が飛んでいました。/アメリカ軍機だったのですね。/雲が立ち込めていたのですが、そのうちの一機が急降下して、大誉地の集落を伺って行きました。/そのうち、なんとなく雷のような地響きのようなものが聞こえて来ました。今思うと、本別が襲われていたんですね。』/この飛行機の編隊は、北見方面から本別方面に飛んでいる。どのような航路を取ったのかの詳細は不明であるが、本別空襲に参加した編隊の一部と考えられる。」
◇北見爆撃の可能性は?
 このトモエさんが見た北見方面から飛んできた編隊が、若松の住民が見たものと同一である可能性はあります。平成7年(1995)北海道新聞発行で菊地慶一著『北海道空襲』に、攻撃機が14日・15日と霧と低い雲などに阻まれ、指示された地点に到達せず、「臨機に」言い換えると自分たち判断で勝手に攻撃して、空母に帰還したようです。7月15日網走を攻撃した編隊も最初10機だったのが、知床山脈を越えたところで二手に別れ、4機が網走を攻撃したとあります。これはあくまでも筆者の推論ですが、残りの6機が美幌の海軍航空基地を目指したのが、厚い雲で目標を発見できず、若松をかすめ、足寄を経由して、本別に向かった可能性はあります。
 北見市の当日の天候を知る資料はありませんが、雲か霧に蔽われていたと思われます。もし晴れていたら美幌のかわりに北見が攻撃されていたかもしれません。また、前ページの図を見るとわかりますが、明確に網走から上の地域は空襲されていません。これは艦載機の航続距離の関係でしょう。もしも高速空母部隊がオホーツク海まで進出していたら、確実に北見地方は爆撃されていたことでしょう。北見市は幸運が重なって、空襲されなかっただけなのです。

《中庭だより》
お会いしたことは一度もないのですが、昔、駅前にあった曙旅館のご子息で、当市に貴重な写真・絵葉書等をご寄贈頂いた、清水町にお住まいの斉藤光雄さんが一月前にお亡くなりになったことが、ご遺族のご連絡でわかりました。心からご冥福をお祈りいたします。
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