ヌプンケシ147号

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市史編さんニュース NO.147
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平成20年7月15日発行

馬場酒造店のこと(2)

◇父親=馬場安太郎は遠別町開拓の発起人
 馬場昌久氏が大正3年(1914)北海道に渡り、小樽で味噌醤油醸造を営んでいた父・安太郎氏の手伝いをはじめたことは、前回の略歴訂正の引用文にもあったとおりです。
 その馬場安太郎については、寄贈写真の中に帯広在住の新出仙松という人が「遠別町開拓六十周年記念」に移住開拓者氏名の額を作成したのを記録した下の写真がありました。

kaitakusya そこには開拓発起人として馬場安太郎の名と共に、額に入った白髪の安太郎の写真も提示されて、明治30年(1897)に越前(福井県)より46名が開拓に入ったことが記されています。
 しかし、遠別町教育委員会の担当の方にお願いした調査では、昭和21年に建立された越前団体入地の開拓記念碑の碑文に世話人として安太郎の名はありましたが、本人が遠別に入植したことを示す資料は出てきませんでした。
 越前市中央図書館から頂いた資料によると、移住の原因は「郷里は土地狭く水田を主として養蚕養鶏を副業とせるも、武生町市街に近く動もすれば風俗華美に流れ生計に困しみ、他に出稼するもの続出せる」(『殖民広報』第69号)ためと書かれていますが、当時は日清戦争(1894〜1895)後の不況の影響で養蚕・綿・藍などの商品作物が衰退し、副業も減少し、加えて明治30年ごろは大干ばつや大洪水などがたびたびあり、当時の越前国南条郡神山村字池ノ上並びに広瀬の両部落は、経済的にも大変貧困な状態であったそうです。
 昭和32年発行の『遠別町史』第一巻にも「明治二十八年北海道の開拓方法が、大農場主義から個人開拓を主とする方に転換してから、団体移住開拓熱が全国的に沸き上った。当越前団体もこの波に乗った一つの開拓団体である。当時越前国南条郡神山村池の上並びに広瀬の両部落は経済的にも全く貧困であった。/同郷の人で北海道で成功しているのを聞き、北海道移民の声がにわかにおこり、明治三十年池広団体の名称のもとに移民団体の組織を作り、次の四十六名が団体の規約に署名捺印して、貸付地出願の手続きを済ませたのであった。」とあります。(なお、その町史に記載された46名を前掲写真の氏名と照合したところ、「馬場安太郎」「山口四郎兵衛」「棚田源助」の名は無く、「千秋右衛門」「松村茂」「野村園治」の名がありました。)
 森下さんのお手紙では、馬場家は大きな庄屋であったそうですから、困窮した村民の移住のために色々と世話をやいていたのでしょう。開拓記念碑の資料と前掲写真を見ると、安太郎は遠別に入植しなかったにせよ、開拓民たちにとって大変な恩人であったようです。
 ちなみに元北海道知事であった町村金吾の父親、町村金弥は隣町、武生町出身で札幌農学校を卒業後、道内の華族組合農場などで農畜産関係の指導に当っていたそうです。また、明治36年(1903)には、馬場安太郎の本家筋である馬場善十郎が美瑛町に農場を開いています。そうしたことから、安太郎も北海道に渡ってきたのかも知れません。
 では、安太郎が小樽で味噌醤油の醸造業を何年にはじめたのかは、『小樽市史』を見ても今のところ何の記録もありませんでした。ただ、寄贈された初売り記念の写真の中にある馬場家の幔幕に「明治39年」「丙午年九月一日」と染文字があるので、この明治39年(1906)が創業年ではないかと推測しています。その頃の小樽は道内一の商業港湾都市でしたから、商売として醸造業も成り立つと見たのだと思います。
◇馬場昌久、弱冠24歳で馬場酒造店創業
 さて、話を昌久氏のことに戻しましょう。大正3年(1914)7月に小樽にやってきた時、昌久氏は20歳、安太郎は45歳で息子が後継者として活躍することを期待したことでしょう。
 大正6年(1917)3月22日、昌久氏が23歳になって、同郷の乙部喜之助の長女=さだを(明治29年9月生れ)21歳と結婚し、大正7年(1918)6月、弱冠24歳で野付牛に移住、馬場酒造店を創業しました。
 多分、結婚に前後して、昌久氏は移住先の野付牛を視察、酒造で十分勝算ありとみての創業だったと思います。当時の野付牛は、第一次世界大戦(1914〜1918)の影響で雑穀ブームに沸き、豆成金が続出し、大正5年(1916)4月に町制を施行、翌6年11月には現在の小公園内に町役場庁舎を新築して東小学校の坂下から移転するなど、新興都市として勢いのあった時期で、道内有数の料亭「梅の家」を中心とした色街も繁盛し、大正7年4月には来野した道庁内務部長に対して遊郭設置の陳情がなされていました。(結果は反対運動等で設置されませんでした。)
 この創業にどれほどの資本が投下されたかは不明ですが、写真類を見ると事務所兼住宅店舗、酒蔵など規模の大きい施設が連なり、相当お金がかかった模様です。多分、小樽の味噌醤油醸造店を処分した資金で野付牛に来たもので、その時点で安太郎は現役を引退し、家督を昌久氏に引継いだものと思われます。

taru 銘酒「北の天」醸造元、馬場酒造店が創業した場所は、オンネメームといわれていた町外れで、広大な農事試験場のとなり、現在とん田東町の北見トヨペット本社のある一帯でした。さすがに一般町民に酒を販売するには本店の場所が遠かったためか、正確な時期は不明ですが、大正十年頃に町の中心地、北1条西3丁目に「北の天販売部」を開設しています。
 右の写真は仕込み用の大きな酒樽の前で酒づくりの職人=杜氏(とうじ)と一緒に撮影したもので、創業間もない頃のものでしょう。若い衆達の印半纏に「馬場酒造部」とあるのは、先の「販売部」に連携したものと思われ、当時としては新しい発想だったことでしょう。この写真に写った昌久氏の顔を見ると二十歳代の若さが見て取れ、ヒゲをはやしたのも商売で若いのを馬鹿にされないためだったかも知れません。(続く)

《中庭だより》
☆6月26日、北見出身の俳優で1950年代から第一線で活躍されてきた外山高士氏が来室されました。当紙44号で同氏を紹介した時に、その歴史的な体験の記録をお願いしておりましたが、今回の面談で書くという意思確認が頂けて、担当として大変喜んで降ります。
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