ヌプンケシ152号

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市史編さんニュース NO.152
 タイトルヌプンケシ
平成20年10月1日発行

seimonn.gif馬場酒造店のこと(7)

◇本覚寺と馬場昌久氏
 ご寄贈頂いて、最初に筆者の目を引いたのは、昭和12年(1937)6月21日にあった本覚寺の入仏式のパレードと本堂落慶法要の様子を写した13枚の組写真でした。
 その最初の一枚である、右の写真の裏書には「昭和十二年六月二十一日/馬場酒造店正門にて御仏御出迎ヒノ店主/記念撮影」とあります。紙面の都合で紹介できないのは残念ですが、このほか、馬場酒造店仏間での記念写真、地元や近郷から参加した御輿担ぎの青年達を写した写真、国道を行進して本覚寺に着くまでの行列の様子などがあります。
 平成16年(2004)11月発行の『佛光遍照−本覚寺開教百年史』の座談会でも、この時のことが百年史編集委員長古川義一氏の発言で次のように触れられています。「十五年有余かかった建築工事にようやく片を付けた二代ご住職(櫻田唯見氏−引用者)は、本堂落慶法要を昭和十二年六月二十一日に継職と共にお勤めになりました。そのときのお入佛のお練りが、現在のとん田東町にあった『北の天酒造』の馬場昌久さん宅から、本覚寺まで、今の国道を行列されたんですね。」これを受けて、行列に参加した古沢政男氏が「われわれ青年は、赤フンドシの奴さんの姿で輿を担ぎ、囃子に合わせて行列させてもらいました。」と証言されています。
 当時の昌久氏は本覚寺信者の総代長として、名実共に町の名士となっていたのです。この昭和12年(1937)6月が馬場酒造店としての絶頂期であったと思います。
◇日中戦争の勃発と経済統制
 同年7月7日の盧溝橋事件を発端に、昭和20年(1945)の敗戦まで日本は中国との全面戦争にはまり込んで行きました。戦争が泥沼化するに連れて、軍事費は増大し、赤字公債は乱発され、しだいに国民経済を圧迫、昭和13年には「国家総動員法」が施行され、全ての物的、人的資源が無条件で戦勝目的達成のために動員されることとなりました。
 これらの影響は食糧にまで反映し、「節米」が唱えられ、昭和14年(1939)12月には米穀搗精等制限令=「白米禁止令」が施行されました。物価も上昇、道庁警察部経済保安課が昭和15年2月に道内7市で実施した生活必需物資の価格調査によると、戦争開始の昭和12年7月を100とした価格指数は小売り56品目が175、また卸売り79品目は166、と高騰を示しました。
 昭和15年6月には砂糖・マッチが切符による配給制になったのを最初に、昭和16年(1941)4月には勅令「生活必需物資統制令」が公布され、酒も配給品となりました。
◇本州への転居は計画的
 昭和17年(1942)に馬場昌久氏が、酒造店を閉じて、本州で軍需工場の経営に転じたことはこれまで何回も紹介しているとおりですが、これは計画的になされていたと思われます。
 というのは、昭和15年(1940)6月発行の名士録『躍進の北見 人物と事業』にある昌久氏の住所が、野付牛ではなくて「鎌倉市雪下二六三」となっているからです。
 ビジネス・センスのあった昌久氏は、経済統制の先を読んで酒造業に見切りをつけ、離北を考えるようになったのでしょう。それと合わせて、長男=俊久氏の進学問題も考えていたのだ、と推測しています。俊久氏は昭和4年(1929)10月13日生れですから、昭和16年(1941)頃に西小学校を卒業している筈ですが、見た限りでは同校の卒業生名簿の中に俊久氏の名前は出てきませんでした。そこで考えられるのは、本州の中学校への受験準備もあって、西小学校を卒業する前に俊久氏は鎌倉の小学校に転校していた、ということです。
 昭和15年2月に野付牛神社造営費として1万円(現在に換算すると1千万円以上)を寄付し、同年3月に警防団長を辞しているのも、離北にむけて身辺整理を始めたためでしょう。

kamakura.gif◇「鎌倉市雪下二六三」は?
 さて先の住所「鎌倉市雪下二六三」ですが、鎌倉市中央図書館へ照会したところ、右の地図のコピーと次の回答を頂きました。
 「雪ノ下263 は現在の 雪ノ下1丁目8−3 になります。/現在は駐車場 それ以前は『博雅』という中華料理店/『博雅』の前は『角庄』という宿屋でした」
 地図でご覧のとおり、その住所は鶴岡八幡宮に間近の一等地、若宮大路に面した角地だったのです。
 このことを昌久氏の孫に当る森下美恵子さんへお知らせしたところ、次のお返事がありました。
 「先日は鎌倉の家に関する大変興味深い情報ありがとうございました。/母に話すと、父から、友達とけんかをして鶴岡八幡の池に放りこまれた、という話しは聞いていたけれど、まさか、家がそんな近くにあったとは...と驚いていました。/けれども母が言うには、父は雪の下の家ではなく、海岸近くの別荘で育てられた様です。」そこには、昌久夫人=さだをと女中が何人かいて、赤金(アカガネ)御殿と呼ばれていたそうです。
 このお便りを読むと、昌久氏は雪ノ下の他に、子どもの教育用に別荘を持ち、それも銅瓦か、壁が銅張りなのか分りませんが、豪勢な造りであったようです。大変な資産家ですね。
◇軍需工場は横須賀、詳細は不明
 鎌倉市中央図書館には昌久氏が経営していた軍需工場についても照会し、「鎌倉市内に存在していたという記録はありませんでした。ただ、現在、雪ノ下にすんでいらっしゃる古老の記憶では、『横須賀市に工場があった』ということでしたので、当館所蔵の横須賀市関係資料にて調べましたが、そういう記述をみつけることができませんでした。横須賀市の図書館にお尋ねいただければ、何か資料があるかも知れません。」との回答がありました。
 早速、横須賀市の図書館に照会したのですが、該当資料なしとのことでした。残念!!
《中庭だより》
☆馬場酒造店などのように、資料のない場合に力強い味方になってくれるのが図書館です。館の職務の一つとして「参考業務」があり、所蔵の資料で調査してくれます。今回も鎌倉や横須賀の図書館の方々に大変お世話になりました。本当にありがとうございました。
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