ヌプンケシ173号

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市史編さんニュース NO.173
 タイトルヌプンケシ
平成21年8月15日発行

◎杉町 八重充と徴兵制(7)
                          
◇同盟休校の首謀者処分      
 「明大学生の紛擾が終に同盟休校となって爆発すると 学校当局では昨日(5月24日—引用者)午後一時から緊急理事会および教授会を開いて学生の処分に就いて協議を重ねた結果 斯様な騒擾を惹起した首謀者十三名に対して放校若くは退学処分を断行することに決し」ました。その13名の内訳は、放校処分9名、退学処分3名でした。商学部の学生は処分無しでした。
 「法科部本科二年 高橋義臣▲同 末木彰▲同一年 杉町八重允(充が正しい—引用者)▲同村田三一▲同 峰田茂吉▲同 木下一三▲同 井上幸次郎▲予科二年 蘆田賢太郎▲同一年浅井秀曉/右学則第三十四条に依り放校に処す/▲政治経済部政治科専門部三年 林實▲同二年 白幡成知▲同一年 笠井文次郎▲同 高橋好一/右専門部学則第六十条に依り退学を命ず」(以上、大正10年5月25日付『東京朝日新聞』より)
 インターネット情報を検索すると、「退学」は在籍記録と単位も残り、復学も可能ですが、大学の名誉を著しく汚したと判断された者の「放校」は当該大学での全ての記録が抹消され、「大学中退」という履歴は使用できず、他校に入る資格も無くなるそうです。従って、二度も放校処分された高橋義臣や杉町は、日本国内では大学に入り直すことは出来なかったのでしょう。こうした点でも、彼等は海外留学せざるをえなかったのかも知れません。
◇次々と手を打つ大学当局
  以上のとおり、大学当局は大正10年(1921)5月24日に起きたストライキ=同盟休校の首謀者と目された13名の学生達を即日放校・退学処分にすると共に、25日夜には大学施設に事務職員全員が篭城して、学生達を校内から締出し、28日まで臨時休校としました。
 26日には学生の父兄や保証人に対して「来週月曜(三十日)より平素のとおり授業をする」「若し理由なく昇校せぬ場合は退校と認める」旨の強い警告を示した通告状を発送しました。(以上、大正10年5月27日付『東京朝日新聞』より)
 27日夜には、警官警護の下、学内最高機関の商議員会が開催され、木下学長・田島学監・掛下理事が出席して経過報告後、「第一.笹川植原両教授の復職は学校と両教授との間に手交された手紙により絶縁の事実明確につき復職は認めぬ事、第二.学生が学長排斥をなした当否に就ては若し学生の意志で学長の位地を動かすこととなれば教育の根柢を破り国体を危くするもので且つ学校改革のための委員がまだ成立せぬうちに学生が運動を起すは不穏当と認め商議員飽迄之に対抗する事、第三.放校退学の学生処置に就ては絶対に復校を許さぬ事」という大学当局を全面的に支持した方針が決定されました。(以上、同年5月28日付『東京朝日新聞』より)
◇動揺し、分裂する学生側
  明治大学生の運動を正義として支援した女将・松本フミが貸してくれた旅館、神田錦町にあった松本亭に本部を置いた学生達は、長期戦を予想して行商などで資金調達をしようとしていました。しかし、矢継ぎ早に強硬策を繰出す大学当局の動きに、一般学生の中には学生運動と距離を置くため臨時休校を理由に帰郷する者、同盟休校を批判し大学当局の決定を是認する者など動揺する学生も増えていきました。たとえば5月28日の時点で特別委員会に参加する学生評議委員が「硬軟に分裂」し、硬派評議委員は会をボイコットしたという新聞記事が見られます。これらの動きに対して、松本亭の本部協議会は各種委員会を招集すると同時に、行商打切りを学生に知らせ「決死的態度にて学校および学校側の委員に当ることを決定」しました。大学が授業を再開する5月30日が、この運動の一つの山場と意識されることとなりました。
◇学生と警官大乱闘
 その5月30日当日のことを、翌日31日付『東京朝日新聞』の記事で見てみましょう。
  ◇明大の大乱闘◇   表玄関の鉄柵破る
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 「此日学校側では各教授、講師、理事悉く胸間に赤色のマークを附けて朝来出揃ひ評議員等は校門前に控へて登校の学生に『全て解決せり学生は安心して授業を受けよ』との旨を認めたビラの配付に忙殺されて居たが 集まり来る学生は何れもノート一冊携へもせず 法科、商科の学生中には授業の開始を待受ける者若干見えたが 多くは只校庭内をウロウロするのみ、斯くて午前八時学校は授業開始のベルを鳴らす途端 何處に潜んで居たのか 学生の実行委員は突如姿を現して各處でベルを打鳴らして応酬し『初志を貫徹する為め同盟休校を継続しやう』との旨を書いたビラを撒き 同時に多数の貼紙が到る處に貼り着けられる、校庭に面した二階六号室の壁には長文の檄文さへ貼られた、そして実行委員の杉町八重允(充−引用者)君は窓から蒼白の顔を突出し『学校は自分自らの力に依つて治めやうとはせず、警官の力に依つて目的を遂行せんとした、現に各教室には悉く警官が張番をして居る 神聖なる学園は此警官に依つて汚された』と叫ぶ、傍に控へた警官は直ぐ杉町君を検束しようとしたので 斯くと見た六百余の学生は二階に雪崩れ込み 其處に控へて居た竹内西神田署長を取囲んで不当を詰り警官隊の退出を要求し 一方各教室に授業開始を待受けてる学生に向つて同盟休校継続の勧告を為やうとした 之を見た警官隊は又もや之を検束しやうとしたので茲に各教室で学生と警官隊は入乱れて乱闘を始め」、その結果、同盟休校に反対した学生・大槻某が暴行を受けたり、巡査1名が2階から突落される等、負傷者が出る騒ぎになりました。
 「茲に実行委員は『此暴動を惹起した動機は警官にある、これを鎮めるには先づ警官を引揚げさせねばならぬ』と校長、評議員に詰寄り竹内署長に引揚を迫ったが 署長は頑として応じなかったが 特別委員堀部氏が更に難詰した為め署長は警視庁と打合せをして結局引揚げる事となったが 学生中 杉町外一名は西神田署に検束された。」
 我が杉町八重充は実行委員の切込み隊長みたいなもので、最初に抗議して検束され、乱闘の
原因になりましたが、西神田署に着いて直ぐに、もう一人の学生と共に釈放されたようです。
◇木下学長はじめ4名辞職で収束
 大学「校内は警官隊の引揚と共に大風の後のような静けさに復し 学生等は『記念館へ記念館へ』と同館に集合し学生大会を開いたが 学生の興奮は其頂点に達し悲壮の気は堂に充ちた」。
 この「事件に就き学校側では直に臨時理事会を開き 善後策に就き協議した結果 木下学長、田島学監、掛下、鵜澤両理事は連袂辞職を為し 卅日臨時休業と決定し 学長以下四名の理事は当日開かれた特別委員会の席に赴き理事会の結果を報告した、之を聞いた委員は直に記念館の大会会場に此旨を報告すると 学生等は雀踊りしつつ割れるが如き拍手と万歳を連呼した。」
 こうして、この事件は学生側・大学当局の痛み分けで事態は収束しました。(続く)

《中庭だより》☆杉町八重充の正確な没年ですが、最終的に当市中央図書館を介して国立国会
図書館に照会しました。その結果、7月23日に『米国初期の日本語新聞』と昭和42年12月28日付『朝日新聞』の訃報記事を根拠に「昭和42年(1967)12月26日」との回答を頂きました。
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