ヌプンケシ126号

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市史編さんニュース NO.126
 タイトルヌプンケシ
平成18年8月15日発行

◎常呂川の流れから(8)

◇ムニニンリウカ
前回紹介した小石川と思われる小川の地点から、平野を凡そ15、6丁も過ぎて、ムニニンリウカというところに小川があった。常呂川の川辺より凡そ3、4丁も上にあがったところを行った。この地名の由来は、昔より朽木が倒れていて、橋になったということである。ムニニンとは朽ち腐れ木、リウカとは橋のことである、と松浦武四郎は日記に記しています。
 鈴木三郎先生は『北見市史』上巻で次のように述べています。この地名は「腐木の橋という意で
munininriuka.gifある。昔から朽木が多く流れて来てここに溜って自然の橋が出来たということであるが、この川は、延長が短く、現北見市の裏山に発して美山町から三楽町の沢を流れ、沢の入口でやや屈折して市街地東5丁目付近を通り、鉄道以南に至って南西へ大曲流して常呂川の一枝川に注いでいる。後に和名で入馬川と呼ばれた川で、市街地通過に当っては、明治三〇年(一八九七)の屯田兵入地によって出来た、北見市街の基盤ともいえる旧市街の南端を画する役割を果たしている。松浦が通過したムニニンリウカ川の地点を確認してみると、『本川より三〜四丁も上を廻って行也』とあるから、通過地点は北見駅の裏手に当る、南仲町か、泉町の区域である。」
◇入馬川と三楽園
 歴史読物集『歴史の散歩道』に次の記述があります。
 「入馬川は古い地図にはムニンニリウカ川となっています。腐った木の橋の川という意味で、入馬川が大通東五丁目あたりを横断したところに粗末な橋があったのですが、腐って馬がそれを渡るのをちゅうちょした程なので、後にできた橋を駒止橋と名付けました。その後、野付牛に鉄道が開通するころ、誰が名付けたのか入馬川と変りました。」ここでも「ムニンニリウカ」と「ムニニンリウカ」、二つの呼び方が出てきますが、どちらが正しいとかはいえません。
 さて、もう50年近く昔、筆者が小学生の頃、藤高校裏手の沢に池があって、中央小学校から遊びにいった憶えがあります。その池が昔あった「三楽園」のなごりとは、その頃はしりませんでした。その「三楽園」についても、『歴史の散歩道』は次のように説明しています。
 「この入馬川の谷は、その大部分が屯田兵の入地したとき公有地となりました。屯田兵たちの生活が安定したころ、新しい学校を建てるとか、記念碑を作るなどのために、屯田兵たちが殖産合資会社を創設してこの公有地を売ることにしました。この公有地の売買をめぐっていろいろな事件が発生しましたが、結局、帯広の三井徳宝ら三名の所有となり、それをさらに分譲するのに三井に代って登場したのが、阿木武兵衛です。/阿木は、この入馬川の谷の斜面に家を建てて、それを根拠地にしてかつての公有地の分譲に当りました。このとき阿木が、この谷間を三楽園と名付けました。そして、石川県出身で当時一条西二丁目でまるこめというそば屋をしていた斉藤関太郎に勧めて、この谷の奥にそば屋兼料理屋を開かせましたが、斉藤は池を掘りその池のほとりにそば屋を建て三楽亭と名付けました。」
 この三楽園が、今の三楽町の字名の由来になっています。
◇阿木武兵衛について
阿木武兵衛写真 この三楽園の名付け親、阿木武兵衛については、昭和九年(1932)発行の『北見大観』に次の紹介があります。「明治十四年(1881)一月十五日石川県江沼郡勅使村字宇谷に文四郎の三男として生る 同三十年(1897)渡道根室町に来住 其後金沢師団騎兵第九連隊に入営日露戦役に出征『戦場を縦横に馳駆豪胆果敢然して機敏なる行動は我軍を勝利に導きたる事一再ならず』として抜群の功績に対して奥第二軍司令官大将より感状を賜ること三度 戦功に依り功六級勲七等に叙せられ軍曹に進級す 大正二年(1913)野付牛に転住 金物商並に質屋営業に従事 其後北見勧業株式会社を創立社長に就任 其間町会議員たりしことあり 野付牛区裁判所 野付牛高等家政女学校 婦人会会館等の敷地を無償にて寄附をなす等実に公共に尽瘁せるが幾多の懸案を残して昭和八年(1933)二月三日永眠せり」(西暦は引用者)
 ここにある北見勧業株式会社が土地を分譲していた会社のようですが、会社設立の年月日については資料が出てきません。三楽亭がいつ建ったのかもわかりません。大正12年(1923)版『野付牛総覧』の附録地図には「三高園」と名称は違いますが、場所を確認できるので大正10年頃にはあったと思われます。
◇三楽園の様子
 その当時の三楽園の様子を、『歴史の散歩道』で見てみましょう。「当時、大通りからこの谷あいに池の辺りの写真向って進むと、やがて谷の傾斜の一角に白い建物が見え、そこから当時にしては珍しいピアノの音が流れ、さらに三楽園の入口に近づくと盲目の老婆と娘と孫の三人が、その時分町の名物の一つであった『三味線婆』の小屋といわれた茅屋(ぼうおく)に住んでいました。い良いよ三楽園に足を踏み入れると、ニレやカシワの巨木が密生し、あたりは雑草が生い茂っていて、道は入馬川のせせらぎに沿って奥に進みます。その突き当りに、暗い密林の中で白い水面を光らせているのが三楽亭の池でした。」上の写真は、その池の辺りを写したものです。
 その後、三楽園を所有していた北見勧業株式会社は戦前に経営が行き詰まり、北海道拓殖銀行にその資産を取り上げられたようです。現在では入馬川も地下に埋め込まれて、その水を引き込んだ池もなくなり、三楽町は住宅地になって、昔の面影はほとんどありません。先の文章にある「三味線婆」とは、「仁頃見番」と同一人物でしょうか。また疑問が増えました。(続く)

《中庭だより》
☆8月7日、梅田事件功労者、中村義夫弁護士の美代子夫人(90歳)が、お願いしたご主人の写真複製の為、ご来室くださいました。梅田事件も無罪判決から二十年、正に光陰矢の如しです。
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