ヌプンケシ130号

北見市総務部 市史編さん主幹  〒090-8501 北見市北5条東2丁目 TEL0157-25-1039

市史編さんニュース NO.130
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平成18年10月15日発行

◎常呂川の流れから(12)
常呂川での水害発生一覧
西暦 水害年月日 水害原因
1898 明治31.9.6~8 低気圧の通過による暴風雨
1909 明治42.4.6~9 低気圧による融雪洪水
1919 大正8.9.20~22 根室付近を通った台風による
1920 大正9.8.10~18 本道を通過した低気圧による大雨
1922 大正11.8.23~25 釧路、根室地方を通過した台風による
1923 大正12.9.15~16 本道南方を通った低気圧による 
1932 昭和7.8.14~19 低気圧を伴う不連続線
1935 昭和10.8.27~30 台風の接近通過による大雨
1939 昭和14.8.15~17 台風による暴風雨 
1947 昭和22.9.15~16 カスリン台風による大雨
1953 昭和28.7.31~8.2 寒冷前線の南下に伴う豪雨
1957 昭和32.5.21~22 本道南方を通った低気圧による
1962 昭和37.8.3~4 台風9号による大雨
1969 昭和44.7.20 局地的に強い雷雨による
1971 昭和46.10.31 道東沖を北上した低気圧による
1972 昭和47.9.17 台風20号による暴風雨
1975 昭和50.8.23~26 台風6号と前線による
  昭和50.9.6~9 低気圧と前線による大雨 
1992  平成4.9.10~12 前線および台風17号による大雨
1998 平成10.9.22~23 台風7号による大雨
2001 平成13.9.10~12 秋雨前線と台風15号による大雨
◇常呂川の氾濫

 この前の台風10号の意影響で降った8月18・19日の常呂川の48時間雨量は176ミリで、平成13年(2001)9月の台風15号の雨量 175ミリと同規模だったそうです。今回の大雨について、網走気象台は6日午後6時の降り始めから9日午前6時まで北見市での総雨量を246ミリと発表。その上、強風でした。常呂川は危険水位を超え、常呂自治区で住民が避難、農地が浸水しました。対策に奔走された関係者の皆様、大変お疲れ様でした。
 常呂川は昔から氾濫を繰り返し、絶えず川の流れを変えていたことは、古い地図を年代順に並べてみるとよく分かります。今回はこの氾濫に触れてみましょう。右の表は平成16年 (2004)3月に発行された『北見河川事務所30年史』に掲載されているものです。
◇明治31年(1898)の洪水
 当市の草創期に開拓に入った人々が、常呂川での最初の洪水を体験したのは明治31年9月でした。その時の様子を記録したものとしては、大正15年(1926)発行の『野付牛町史』に掲載された、端野にあった第一中隊の隊長濱田高三が屯田歩兵第四大隊長三輪光儀に報告した文書「水害景況報告」があります。それを簡単な現代文に訳したものが、昭和48年(1973)に北見市立光西中学校2年E組の生徒達が学級研究でまとめた『北見の歴史』にあるので、次に転載します。

  8月29日より、9月上旬にわたって、連日雨天が続き、黒い雲が常に空をおおい、太陽があらわれることもなく、時にはどしゃぶり、時には小雨となってとぎれることがないくらいに降り続いたが、9月7日晩迄は各区とも別に異常なく人々も安心していた。
 ところが、午後9時30分頃、官舎東南あたりで「ゴウゴウ」という水の音を聞くと同時に、ものすごい濁流が第三区の東方、常呂川左岸の凹部より国道の東側凹地に向って流れ出した。
 その流れの進路にあった米倉、官舎(特に第4等以下の官舎)は、激流にまきこまれ、官舎および東本願寺、第二号駅附近は一面泥水の海にかわってしまった。人々は難をのがれて高い所にある官舎に避難したり、逃げおくれた人は官舎の押入れの上段にもぐり込んで、流れ残ったぬれた米をそのまま食べて、水のひくのをまった。
 水量の増加は急激で、午後10時30分頃は4、5等官舎では流水が床上1.2mくらいにまでなった。翌8日午後3時頃よりすこしづつ減水してきたようだが、風がかなり強かった。
 午前9時になって20〜25cmくらい減水した。このとき、次の報告を受けた。「第二区は暴風のためこわれた家屋5戸、第三区では2戸であったが、その他は異常なかった」と。
 そこで、第一区の状況を知りたいと思ったけれど、官舎および第二号駅、上常呂橋の間は濁流におおわれ、交通がとだえ、その日の午後になっても往来することはできなかった。
 午後2時頃になって、第二区、第三区を見まわったが、前記の報告の家屋の外は、大きく破壊されたところはなかったが、耕作物は大きな被害を受けた。この方面の出水は、日暮れになってかなり減水した。
 前記のように、第二区、第三区の状況はわかったが、第一区は流水のために交通を遮断されたままだったので、心配し、9日早朝、朝井曹長を上常呂橋(端野)附近の様子を見にいってもらったが、橋の附近は、まだ常呂川の河水があふれ、水の勢いも強く、深さも約1.5mあって、通過できる見込みはとうていなく、上常呂橋は幸い無事であったが、二軒橋は流失したようであるという報告があった。
 しかし、この日はぜひ連絡をとりたいと思い、私は戸倉中尉、石田一等軍曹および水泳のうまい兵卒6名をひきいて午後0時30分頃出発し、上常呂橋附近にいったが、前の報告のように常呂川の河水はあふれ出し、道路の長さ約70mは深さ1.2m位の激流になっていた。が、なんとかこれを渡り、常呂橋を通過し、二軒橋についた。(上常呂橋、二軒橋間は流水深さ1.5m)。二軒橋はすでに流失しており、水の勢いは猛烈で渡ることができず、前岸の一区の兵屋を見ていた。そこで数名で大声を出したところ、7、8名の人が出てきて、河を隔てて、第一区の状況を聞いたところ、第一区の出水は深さ4.2m余りにおよび、家屋は6戸流失し、人々は屋根にのぼって避難し、2、3日は食べ物をとっていない状態だったが、人命に別条はなかった。一艘の船を用意してあったので、石田一等軍曹に命じ、本日の晩食および明日の朝食・昼食合わせて三食分の炊き出しを準備し、とりわけ晩食ははやく準備するよう命じて、中隊の事務所に帰らせた。
 ようやく舟を運搬してきた。屯田歩兵二等卒吉田石松が右岸から縄を喰えて激流に飛び込み泳いで流木にたどりついた。左岸からは屯田歩兵一等卒小川梅次郎が両岸で倒れている電柱の電線をわたり、流木につかまっている吉田石松より縄を受けとり、これを持ち帰って縄を両岸に張った。この縄によって舟をあやつり、左岸にきたので、私と戸倉中尉がまず渡って第一区にいったところ、そこではたまっている水が2mくらいのところがまだあり、筏や舟を使ってお互いに往き来していた。各戸をまわってみたところ、被害の状況は惨たんたるもので、見る人を凄然とさせた。兵員やその家族は、私たちをみて喜びの表情をあらわしていたが、私たちは慰めたり、また励ましたりした。
 その夜、晩食の握り飯が到着したので、これを分配し、翌10日は2食分を送った。また、第三区の兵卒を指揮し、橋を急いでつくるよう一等軍曹多田松次、同田丸源蔵に命じた。橋はその晩になりようやくでき上がり、これでその後自由に通過できるようになった。
 このたびの大洪水で作物は九分通り大損害を受け、特に第一区の兵員や家族は悲惨な目にあったため、いまのところ意気消沈している状態であるが、私たち幹部が励まし、勇気づけるよう努めているところである。
 なお、歩兵曹長朝井勇勉は、9日、上常呂橋附近の状況を見にいった際、木に登っていた13歳くらいの男子を救助した。
 以上報告します。
  明治31年9月15日/第一中隊長 濱田 高三/屯田歩兵第四大隊長 三輪 光儀 殿

この洪水で北光社は大きな打撃を受け、多数の開拓民が逃げ出してしまいました。(続く)

《中庭だより》
☆9月29日、秩父の「映画『草の乱』エキストラ友の会」会員10名が来北、当職が井上伝蔵ゆかりの場所を案内しました。旧丸正デパートはじめとする関係箇所に目印がないので、観光向けに簡単な標柱でも立てれば親切で良いのに、と参加者が言っておりました。

 

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